かっぱコラム
「旅の話」
鍼の話 本の話
“旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。
今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎていく。
ほとんどの場合、土地の人々がしゃべっている言葉を理解することができない。
つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものなのだ。
だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。”
パウロ・コエーリョ著 「星の巡礼」より
目次
- 大阪からの船
- ヒッチハイク①
- ヒッチハイク②
- ヒッチハイク③
- ヒッチハイク④
- ヒッチハイク⑤
- 鳥葬
- セーター
- 本
- カレー
- タブラ
- マージャン
- ある親子
- 大人
- たこ八郎
- 礼拝
- エルサレム
- 海と馬
- 色彩
- 南京虫
- 大木
- 予言
- なごり雪
大阪へ
20代半ばを過ぎた頃の旅の話(2000年~2001年)。
暖かい春の日、ドキドキしながら大きなリュックを背負って通勤通学の人で満員の電車に乗って大阪へ向かった。
大阪港に着き、船に乗る人達の列の中に加わった。
退屈しのぎと不安を紛らわすためにすぐ前にいた女性に話しかけたら同じ大学出身で、やはり長い旅に出るとのことだった。
船に乗り込んで一番安い2等和室(雑魚寝部屋)に入った。
そして隣にいた年上の男性に話しかけた。
「中国は学生のとき以来7年ぶりなんですよ。その時は雲南をまわりました」
と言ったところ、その人からは
「おれは今は仕事で中国によく行ってるんだけど、7年前の中国旅行が最初の海外旅行だったな。おれもその時雲南まわったよ。雲南のどこ行った?」
と返ってきた。
奇遇だなと思ってよくよく話していくと7年前に昆明の安宿で会って一緒にご飯を食べに行ったりした人だった。
お互い偶然の再会を喜びあった。
前回会った時は自分はまだ学生で20歳。
その人は当時31歳で、会社を辞めて初めての旅に出てきていた。
昆湖飯店のドミトリーで一緒だった他の人たちも含めて、楽しい日々を過ごした。
別れ際、アドレス交換をしたのだが、その後連絡は取っていなかった。
それでお互いこの7年間のことを話し始めた。
僕は大学を出た後に新卒で入った会社を辞めて、これから長い旅に出ることを話した。
その人は最初の雲南の旅行で中国が好きになり、自分で中国家具・雑貨を輸入販売する店をやっているとのことだった。
自分は学生の頃、まだ自分自身のことをよく分かっていなかったので、その人のことを楽しい人だと思う反面、
「会社を辞めて旅に出るなんて、この人は何を考えているんだろう。」
などと思っていた。
それがまさに同じことをしていたので、正直に話したらその人は大笑いしていた。
お互い何か不思議な縁を感じた。
船からはトビウオの群れが見えた。
そして夕陽がとてもきれいだった。
船は2泊3日で上海に着いた。
♪Berangkat-ブランカ- THE BOOM
ヒッチハイク①
船が上海の港に入った。
最初の目的地はチベット。
特にカイラス山に行きたかった。
学生時代からチベットに関心があり、インドのダラムシャーラーに行ってダライ・ラマの法話と握手会に参加したこともあった。
雲南を旅行した時も、行けるならそのままラサまで行きたかった。(無理だったけど)
チベットの中でもカイラス山は多くの宗教で聖なる山とされていて、ずっと行きたいと思っていた。
大学卒業後は就職して働いていたのだが、仕事に慣れた頃、年末年始の休みと有給休暇を合わせてネパールに2週間ほどトレッキングに行った。
ガイドもポーターも雇わず一人で黙々とアンナプルナを歩いたのだが、すごく楽しかった。
山もよかったし出会った人達も面白かった。
会社に戻った時、先輩に「凄くスッキリした顔をしてる」と驚かれた。
そして、
「この山々の向こうにチベットがあってカイラス山があるんだ」
と思うと行きたい気持ちがムクムクと湧き上がって抑えられなくなった。
カイラス山へは日本からツアーも出ている。
当時50~60万円ぐらいかければ20日程のツアーがあった。
かなり高いが、それならサラリーマンのままでも不可能というわけではない。
でもカイラスは自分の旅として行きたかったし、他に行きたい場所も多くあった。
仕事でやり遂げたかったことが一区切りがついた事もあって4年弱勤めた会社を辞めて行くことにした。
「青年海外協力隊なら会社に戻ってきてもいいぞ」と上司から言われたが、それよりもカイラスに行きたかった。
上海から中国を転々と旅して、敦煌からバスでゴルムドに入った。
ゴルムドからラサを経てカイラス山に行こうと思っていた。
現在ゴルムドからラサは青蔵鉄道が走っている(2006年7月1日開通)が、この時はまだなかった。
そしてもちろん、それ以前から飛行機は飛んでいるが高かった。
そのような理由で、お金はないけれど時間はたっぷりあるバックパッカーは陸路での移動が多い。
バスは中国人用と外国人用の2種類だ。
外国人がチベットに入るには旅行許可証が必要で、中国政府が旅行許可証とバスチケットをセットで売っている。
しかし、これがまたバカ高くておまけに許可証は一旦ラサに入ってしまえばチェックされることなくすぐ捨ててしまう代物だ。
なので安く上げたい人は、中国人のふりをして普通のバスに乗り込むか、闇トラック闇タクシーを雇って(ヒッチハイクして)行くことになる。
しかし違法なので途中何ヶ所かある検問所で見つかると追い返されるし、運転手は処罰される。
しかもこの時、ちょうどラサで党の記念式典があるということで検問が厳しくなっていた。
闇トラックや闇タクシーを雇ってラサに向かったものの、検問で見つかって追い返されたという旅行者に何人も会った。
自分はビザの問題があった。
ビザを延長しないと西チベットを周ることはことはできない。
それまで転々と旅してきた街でビザの延長をしようとしたができなかった。
理由は分からない。
そのためチベットに入る直前のゴルムドでビザを延長してからラサに行こうと思っていた。
しかしゴルムドでも延長を拒否された。
ラサでビザを延長することは不可能と聞いていたので、一旦夜行電車で西寧という町まで戻ってビザを延長しに行った。
西寧で駄目だったらどうしようかと思っていたが無事に延長できた。
とても嬉しかった。
そしてまたゴルムドに戻った。
ゴルムドの宿で同じくラサを目指す日本人の旅人2人と会い、一緒に目指すことになった。
翌日、ゴルムド駅前にたむろしているブローカー達に闇トラックや闇タクシーについていろいろ聞いて情報を集めた。
しかし調べていた相場よりも値段を吹っかけてきたりして、なかなか決めることができなかった。
交渉した結果、目が青いウイグル系の若いブローカーと値段が折り合って頼むことにしてた。
明日の昼前に待ち合わせをしてそのまま出発することに決めて、買い物をした。
市場で人民解放軍仕様の重くてかさばるけどあまり温かくない防寒着、そして水や食料を買い漁り、晩飯に皆で鍋をつついた。
翌日、ブローカーと待ち合わせをした場所である駅前に行くと、ブローカーはタクシーを捕まえて僕達を町外れの民家に連れて行った。
その民家にはトラックが2台止まっていて、おっちゃんたちが荷物を積みこんでいた。
自分はその荷積みを手伝った。
彼らはなかなか丁寧な仕事をしていたのでこれは信用できると思った。
手伝いながら、トラックの運ちゃんは全部で4人でそのうち3人は兄弟ということが分かった。
トラック2台に2人ずつ乗り込んで交代しながら走るらしい。
さりげなく、自分を運ぶことでいくら貰えるか聞いたところ、250元とのことだった。
自分がブローカーに払うのは600元だ。
ちょっと抜きすぎだろうと思って、ブローカーと値下げ交渉をしたところ400元まで下がった。
更に下げようとしたら本気で怒り出したので、まぁいいだろうと手を打った。
ちなみに、運ちゃんたちは荷物をラサまで運んでも、その仕事の儲けは僕らを運ぶより少なかった。
ラサまでは早ければ24時間で着くという。
はじめは昼の12時出発と聞いていたのに、積み込み作業は進まず、家の中に招かれた。
家には3兄弟のうち上2人の奥さんと子供がいた。 みんなでご飯を食べた。
急いで出発したいところだったが、家族に合わせてのんびり食事をした。
自分ともうひとりが一緒にトラックに乗って運転手2人で計4人、3人目が乗ったトラックは運転手2人の3人で出発した。
結局出発したのは夕暮れ時の18時か19時ぐらいだった。
夜になり、最初の検問所があった。
運転手に伏せるよういわれた。
ここの係官は甘いらしく楽に通過できた。
そして夜になって寝ようとしたら仮眠スペースは交代の運転手が寝るからダメだという。
最初の話では寝てていいとのことだったので腹が立ったが、ここで揉めて殺されても誰も気付かないだろうし、外に置いていかれても死んでしまう。
しょうがなく座って寝ようとしたら、それも運転手は気に食わないらしくブツブツ文句を言われた。
夜中になり峠に差しかかって眠気とムカつきと寒さで頭がおかしくなりそうな上に、高山病がひどくなってきた。
一応ゴルムドの薬局で高山病予防の薬を買って飲んでいたのだが、頭が割れるように痛くなった。
しかし水を大量に飲んだら何とか落ち着いてきた。
外は吹雪だった。
暗闇の中、見渡す限りずっと果てまで、ごつごつした石が転がる不毛の大地が続いていた。
遠くの方に山が見える。
ふと見ると道の脇には壊れたトラックの残骸がところどころ転がって雪に埋もれている。
途中何台か走っているトラックを見た。
そうしたらフロントガラスにビニールシートが張り付いたまま走っているトラックを見つけてビックリした。
よく見たら、そのトラックにはそもそもフロントガラスはなかった。
吹雪の中、ビニールシートを貼りつけて前が見えるように少し穴を開けて走っていた。
また、あるトラックはそれとほぼ同じ大きさのトラックを荷台に積んで走っていた。
当然思いっきり荷台からはみ出していた。
何でもありの道だった。
ちょうど峠の頂上あたりで僕らの乗ったトラックはだんだんペースが遅くなり、止まった。
故障したのだ。
吹雪の中、僕達を外へ追い出し修理が始まった。
半端じゃなく寒かった。
我慢できずに故障していない方のトラックに頼み込んで入らせてもらって修理を待った。
修理が終って、また走り出した。
多分、夜中の3時か4時ぐらいにサービスエリアのような、泊まる所と食堂が固まってある場所に着いた。
逆にそこまでは何もなかった。
オンドル式のこたつのあるかなり汚い旅館というか、仮眠所のようなところに入った。
そこの親父もやはりウイグル系だった。
横になるとすぐ寝た。
臭かったが温かかった。
朝6時ぐらいに起こされた。
2時間しか寝れなかった。
朝食に羊料理が出てきたが、僕はその当時肉を食べなかったのでパンのようなものだけ食べた。
そして皆で目の前に広がる草原に出てウンチををして、すぐ出発した。
その日のことはあまり覚えていないがとにかくひたすら走っていた。
腰が痛かった気がする。
夕方になって、出発から24時間経ったのでそろそろラサに着くだろうと思って運転手に聞いたら、まだまだと言われた。
夜、また検問所があってこの時は大分手前で降ろされた。
そして 「草むらを歩いて検問の裏側を超えろ」と言われた。
はじめは意味が分からず荷物を預けっぱなしだったので不安だったが、どうにでもなれと思いトラックを降りて暗闇を歩いた。
検問を越えたところで再び乗せてもらって、トラックは走り出した。
夜中の2時か3時ぐらいにまた僕の乗ったトラックが故障したらしく、途中の村で運転手の知り合いらしい修理屋の家の庭にトラックを入れて修理した。
そこではろくに仮眠もできず、そのままトラックは走り出した。
この頃になると、トラックで6時間という距離は隣村のような感覚になっていた。
明け方になり、運ちゃんにあとどれぐらいで着くのか聞くと、昼前にはラサに着くということだった。
夜が明けたところで道の分岐の村にさしかかり、運ちゃんが情報を集めたところどうも予定していたルートは検問が厳しいということで、かなり遠回りすることになった。
がっかりしたが、今自分がどこにいるのかはっきり地図で確認して分かったので気分が楽になった。
その迂回路はひどい道ですごくゆっくり走っていた(人の早歩きほど)。
途中、道は増水した川から溢れ出た水で遮られていた。
何台か車が停まっていて、みんな渡れるかどうか車から出て様子を見ていた。
そんな中、1台の乗用車が勢いよく突っ込んで行った。
しかし、水に浮いて流れていった。
幸い僕らの乗ったトラックは車高が高く、無事に渡ることができた。
道の途中では久しぶりに緑が広がっていて美しかった。
そこで子供が遊んでいる姿も見た。
こんなところで育ったらどんな風に成長するんだろうと思った。
この頃になると気分も高揚していた。
そして夜中になって、トラックはとうとうラサに着いた。
結局、56時間かかった。
予定の倍以上だった。
トラックを降りる時、運ちゃんとお金でごねることもなく、こちらが少し上乗せして渡した。
最後にお礼を言って、みんなで写真を撮って、ヤクホテルにチェックインした。
ヒッチハイク②
ラサではのんびりした。
大昭寺(ジョカン)や八角街(バルコル)は毎日行っても飽きないし、何より食べ物がおいしかった。
同じ宿の日本人で連れだって毎晩美味しいご飯を食べた。
食堂ではよくTVを流していたのだが、日本のアニメや日本軍の非道を描いたドラマとかも流れていた。
ラサは漢民族が思っていたよりも多かった。
漢民族の移住・仕事に関してはいろいろと政府の補助があるようで、もはやラサではチベット民族より漢民族の方が人口が多いとのことだった。
心身ともにリフレッシュして情報を集め、カイラス山に向かうことにした。
当時(たぶん今も)、西チベットはラサよりも更に厳しく外国人の自由旅行が禁止されており、ツアーだけが許可されていた。
そのツアーは元々バカ高い上に料金は頭割りなので人数が集まらないと相当高い。
安くあげるため、そして自由に旅をするため、やはり違法ヒッチハイクで西を目指す旅行者は多い。
宿泊しているラサの宿で聞いたら、西チベットに行くツアーはしばらくないとのことだった。
ゴルムドで聞いたのと同じく、党の式典とチベット解放の何十周年だかで極めて敏感な時期だった。
さらにカイラス山でもお祭りがあり、政府はチベット人の民族意識が高揚するのをおそれてか(もし弾圧した時に外国人に見られることをおそれてか)、西チベットへ行くツアーをこの時期全て禁止にしてしまっていた。
こういうことはよくあるらしい。
そして道の途中で違法ヒッチハイクを徹底的に取り締まっているとのことだった。
つまり西チベットには、たとえ正規の高いお金を払ったとしても、旅行者は誰も行けないという状態になっていた。
実際どの旅行会社に行っても「ツアーはない」と言われ、ヒッチを企てた旅行者はことごとく検問で捕まって失敗しているとの噂だった。
ラサでトラックが集まる場所を探して乗せてもらえないか聞いてみたが、やはり素っ気無く断られた。
同じトラックキャラバンでゴルムドからラサに来た人(Nさん)もカイラスに行きたいとのことだったので、情報を集めてヒッチハイクするために一緒にローカルバスで西(カイラス方面)のシガツェというチベット第2の街に行った。
そこで郵便局に行って郵便トラックと交渉したり、運送会社へ行きトラックの運転手に乗せてくれるか聞いてみたが全部断られた。
途中で中国人の若いカップル(かなりのエリートっぽい大学生)の旅行者と仲良くなり、彼らに運送会社と交渉してもらったが駄目だった。
みんな「今は取締りが厳しいから」とのことだった。
その後、自転車でネパールに抜けようとしていた日本人旅行者と会い、一緒にご飯を食べながらいろいろ話した。
彼は規制が厳しくなる前に許可証を取って、チベットに入っていた。
そんな感じで何日か過ごした。
日差しがきつくて、全部の荷物を持って歩き回るので(交渉が成立したらすぐにトラックに乗り込むため)疲れ果てた。
喉が渇き疲れ果てて食堂に入ったところ、僕と同じようにカイラス山にヒッチで行こうとして行方不明になっている日本人旅行者の情報を求める張り紙が貼ってあった。
カイラス山までの長い道のりの殆んどは無人の荒野だ。
ヒッチハイクの途中で運転手の気がふと変われば・・・と考え始めると怖くなってきて本当にカイラスを目指すか迷い出した。
一旦ゴルムドから一緒に来たNさんと別れて、それぞれで考えて行くことにした。
前日までとは別の宿にチェックインしたら日本人が2人いた。
一人はこのままネパールへ行く人で、もう一人はラサでも会った人でヒッチでカイラスに行くと言っていたAさんだった。
その人達と話していたらヒッチに失敗したNさんが来た。
Nさんは別の宿にチェックインしていたが、一緒に晩ご飯を食べた。
明日は街外れまで出て、道に立って一緒にヒッチすることにした。
翌朝、チェックアウトする前に一人旅をしていたドイツ人女性と話をしたら思わず深い話になった。(その時のことはこちらに少し書いてます。)
それで覚悟を固めた。
朝から街外れの道に立ってヒッチした。
何台か声を掛けたが断られて、その内に誰かに密告されたのか警察が来て尋問された。
しかし、適当に答えて逃げた。
もう諦めるしかないかと思ったが、ここまできたらやるだけやってみることにして、場所を変えてヒッチをした。
そこでしばらくヒッチをしていたが、どうしてもつかまらなかった。
諦めかけた頃にローカルバスが来たので飛び乗って、更に西の町のラツェまで行くことにした。
ラツェに入るのにも許可証がいるが、自分は持っていない。
公安に見つかったらどうしようとも考えたが、とにかく行くことにした。
このローカルバスはとてもぼろく、運転手もかなりアホで途中で車の燃料がなくなりバスが止まった。
そうしたら運転手が通りがかったトラクターをヒッチハイクして、どこかに燃料を買いにいってしまった。
結局運転手が燃料を持って戻ってくるまで2時間ぐらい外で座って待っていた。
その間、バスの乗客だった西洋人の男と香港人の女性のカップルと話した。
女性は「途中で燃料が切れるなんて、なんて愚かなの!」と怒っていた。
その二人はちゃんと許可証を持っていてエベレストトレッキングに行くとのことだった。
僕がカイラスを目指していると話すと、男性は
「カイラスは行きたかったが、遠すぎるので断念したんだ」
と言っていた。(「too far」と遠い目で嘆いていた)
運転手が燃料を入れた容器を持ってトラクターで戻ってきた。
燃料補給をして、またバスは走りだした。
食事休憩を一回とってのんびりのんびり走り、夕方ラツェに着いた。
この街から5kmほどいったところにネパールに抜ける道(エベレストもこっち)と西チベットに抜ける道の分岐がある。
食堂でお茶を飲んで、できるだけ密告されないようにボロボロの宿に泊まることにした。
そこで荷物を降ろし、お金を先払いして、ラツェの街にいたトラック全てに声を掛けていった。
しかし分岐の手前に大きな検問所があり、今とても厳しい検問をやっているとのことで誰も乗せてくれなかった。
捕まると運転手は結構大変なことになるようだった。
カイラスをあきらめて、エベレストトレッキングに変更しようかと散々迷った。
が、とにかくやるだけやってみようとNさんと話して決めた。
結局、夜中に歩いて検問を越えることにした。
晩飯を食べた後、下見がてら検問の近くまで歩き、場所と様子を確認した。
帰り道、チベットの民謡をみんなで歌いながら歩いてきた子供たちとすれ違った。
星がちりばめられた空の下、すごく幻想的な雰囲気だった。
宿に戻って清算し、仮眠した。
深夜になって宿を出て、検問に向かって歩いた。
大量の水と食料、防寒着を持っていたので荷物は凄く重かった。
5kmなので1時間ちょっとで着くと思ったが、2時間以上かかった。
遠くから検問所に見張り番が居ないのを確認し、静かに歩いて近づいた。
検問所の前にはトラックが何台も止まっていた。
明日の朝、チェックを受けて行くのだろう。
トラックの横を通り過ぎて前に進むと、道を塞いでいる大きな遮断機のような棒があった。
それをまたいで静かに通り過ぎようとしたところ、犬が十頭以上も吼えながら近づいてきた。
多分、検問所で飼っている犬だろう。
チベットの犬の群れと夜中に相対するのはとても怖かった。
チベットの犬は狂犬病を持っていることが多いと聞いていたので、一応予防接種は日本で打ってきた。
しかし狂犬病とは関係なく、単純に戦闘力で負けるだろうという迫力だった。
そして犬の吠える声で検問の人たちが起きてくるかもと思ってドキドキした。
噛み付こうとする犬を興奮させないように荷物で軽くはたきながら、犬に背中を向けず、後ろ足で歩いた。
荷物はかなり噛まれ所々破れたが、身体は噛まれなかった。
これは運がよかったのだろう。
結局、検問所の人は起きてこなくて、犬もあまり深追いせず、だんだん検問から離れるにつれて数が少なくなっていった。
検問を越えて更に道を30分ぐらい歩いて、道の横の畑の中に入って寝た。
寒かった。
朝起きたら、トラックが通り始めていた。
1台ずつ止めて交渉したが、全て断られた。
昼近くになって、通るトラックもなくなってきた。
次のトラックでダメだったら、検問で公安に捕まるだろうけど歩いてラツェに戻ろうと決めた。
そして、最後のトラックが来た。
諦めつつ交渉したところ、なんと乗せてくれることになった。
道がつながったと思った。
ヒッチハイク③
ヒッチできたのは運がよかったのだと思う。
あとでラサに戻った時に、カイラスへ行きたいという韓国人の中年男性にこの話をしたところ、
「俺もその方法で行く」
と言って旅立ったのだが、その後彼とネパールで再会した際に
「お前が言ったように検問を越えたところで3日間トラックに声をかけ続けたが誰も乗せてくれなかった」
と文句を言われたから。
(更にその1年後ぐらいにバンコクで会った旅人に同じことを話したら、3か月後ぐらいに「言われた通りにやって成功しました」とメールが来た。)
ヒッチ仲間とそれぞれ別のトラックに乗せてもらったまではすごく嬉しかったのだが、トラックは東風という中国製のとんでもなくぼろい、馬力のないトラックだった。
このトラックが未舗装の、道とは言えないようなだだっぴろいチベット高原の荒野を走っていくのでしょっちゅう故障する。
トラックはキャラバンのように7,8台の仲間同士で連なって行き、1台が故障すると全員で直す。
僕の乗ったトラックをはじめキャラバンのトラックは途中何回も故障したりパンクしたりして、自分もその度にトラックを降りて修理を手伝った。
一応仕事で物流管理をしていたので、トラックと少し関わっていたのが役に立った。
このグループの人達はカムパといってチベットの中でも特に荒っぽいとされる人達だ。
でも、以前自分が働いていた会社の運転手にも荒っぽい人がいたので、それほど気にならなかった。
最初、自分とヒッチ仲間は他のチベット人と3人で座らされてすごくきつい体勢だった。
我慢していたらしばらく進んだところで、さすがに運転手が嫌がり他のトラックに乗せられた。
車はどんどん進んだ。
高度が高いため頭がぼんやりしてきて、なおかつ同じような景色がはてしなく続いている。
「ひょっとしてこのトラックは同じところをぐるぐる回っているのではないか」等とぼんやりした頭で考えていた。
トラックは昼過ぎに食事のために止まった。
何もない(ように見える)荒野にぽつんと小屋があった。
そこが食堂らしく、彼らはツァンパと呼ばれる麦を焦がした粉とバター茶を食べる。
最初は進められるまま食べたのだが車酔いもあってかほとんど食べれなかった。
干し肉も薦められたが、当時は肉を食べなかったのでお断りした。
仕方なくお湯をもらって持ってきたカップラーメンを食べた。
トラックはまた走り出し、夜になった。
夜はまた同じような店で晩御飯を食べた。
そしてこのままずっと走るのかと思ったらそこから数時間行ったところで夜10時ぐらいに止まった。
周りには何もなく、ただ風が強く吹いていた。
彼らはトラックを円形に止めて風除けにし、分厚いマットのような寝袋をトラックから下ろして敷いた。
僕にも荷物を降ろして寝ろと指示した。
テントも何もない、ただの野宿だ。
あまりに寒いのでトラックの中で寝させてくれと頼んだものの、運ちゃんに拒否されて諦めて外で寝ることにした。
日本から持ってきた防寒着と途中の町で買ったありったけの服を着こんで、靴をはいたまま薄い寝袋に入った。
ものすごく寒かったが疲れもあって知らぬ間に寝付いた。
しかし夜中に猛烈に寒さを感じて目が覚めた。
とにかく寒く、風も強かった。
呼吸が乱れてきた。
このときの感覚ははっきり覚えているのだが、どれだけ息を吸ってどれだけ吐いていいのか、いきなり分からなくなった。
高山病かと思って不安になったら余計にひどくなってきた。
このままパニックになったら本当にまずいと思い、「もうどうしようもない。死ぬ時は死ぬ。」と開き直ったら、少しずつ収まっていった。
過呼吸だったらしい。
寝るのを諦めて起き上がって体を動かして暖めた。
空では月が強い光を放っていた。
そうこうしている内に運転手も寒くて目がさめたみたいなので、運転席に入れてくれるよう頼んだら入れてくれた。
もちろん暖房などないが、すこし寝れた。
明け方になり、運転手達が一斉に寝袋を片付けて出発する準備をした時、僕の乗ったトラックのガラスだけがバキバキに凍っていた。
彼はこれを嫌がって中に入れたくなかったのだ。
運ちゃんは怒って僕にずっと文句を言っていた。
僕の乗ったトラックは運ちゃんと険悪な雰囲気のまま、ひたすら走った。
遥か向こうに雪を被った山々がそびえていた。
濃い青の空と真っ白な雲の下、どこまでも進んだ。
何もない高原の荒地にたまに小さい石が積み重ねてあるところがある。
チベット人は小さい石を積むらしい。
峠や何か特別な場所には独特な色合いの、カラフルな旗がはためいている。
そこの横を通り過ぎる時は「ツオー、ツオ、ツオ、ツオ」と何か唱え、紙ふぶきのようなものを撒く。
僕も一緒になって口にしていた。
僕はひたすら続く青い空とかなたにそびえる山々を見ながら、トラックは無人の荒野をひたすらガタガタと走った。
ところどころ積み上げられた石があった。
トラックの中で、ぼんやり2つのことを思い出していた。
1つは、小学生の頃の学校の先生の話。
子供が行く地獄は賽の川原で石をひたすら積み重ねて、何段か積むと地獄を抜け天国に行けるのだが、いいところまでいくと鬼がやってきて壊していってやり直しになるというものだった。
もう1つは、うちのお墓があるお寺に飾られている西方浄土が描かれている絵。
西チベットの風景は、子供の頃に醸成されたあの世のイメージと何となく重なった。
ぼんやりとしながら、実はもう自分は死んでるんじゃないかと思ったりした。
茶色の土のずっと向こうにヒマラヤ山脈が続いていて高い山がいくつもいくつも見えていた。
「目指しているカイラス山はああいう山と何が違うんだろう?実際行って見たら、なんだ今まで見てきた山と同じじゃないか、と感じるんじゃないだろうか」
などとも思っていた。
夜になって、また見渡す限り何もないところにぽつんとひとつだけ建った小さなテント(食堂兼売店)でご飯を食べることになった。
ツァンパは身体が受け付けなかったので、そこでもカップラーメンを食べた。
そこの奥さんは赤ちゃんをあやしながらバター茶を作っていた。
とても大きな筒のようなものにお茶とバターを入れて何回も攪拌するので重労働だ。
それが終わると今度はチーズを作り始めていた。
これは皮袋にヤクか羊かの乳をいれて揉み解すようにしていた。
時々、赤ちゃんが泣き出したが、その度にやさしくあやしていた。 かわいい赤ちゃんだった。
食事が終わり、また走るのかと思ったら今日はここまでといわれた。
テントの外で運ちゃんたちはまた例の大きな寝袋を敷いて寝始めた。
自分もありったけの防寒着を着込んで薄い寝袋に入った。
湖のほとりで昨夜より寒くなかったし、2日目なので落ち着いていた。
まず、寝始めの内はそんなに大気も冷えてないので寝れる。
夜中寒くなって目が覚めたら後は起きていて時々身体を細かく動かしていればその内、朝が来る。
それでトラックに乗ったら寝ればいい。
そう思うと気が楽だった。
夜中、予想通り寒くなって目が覚めた。
でも昨夜ほど寒くはなかったのでずっと星を見ていた。
うつらうつらしながら寝袋の中で時を過ごし、朝が来た。
その日はだだっ広い高原から、風景が変わってきて峠越えがあった。
すぐ横は崖という細い険しい登り道にさしかかったとき、突然トラックが止まった。
運ちゃんは僕に向かって何かわめいていたが僕は訳がわからずにいると、仲間の運ちゃんが降りてきてトラックの車輪の後ろに石を置いて輪留めした。
どうも何か大きな故障をしたらしい。
そこで何時間か修理した。
そしてまた走り出した。
トラックは昼過ぎにゲルツェというこの辺りでは大きい街に着いた。
ここからトラックは僕の行きたい方向とは違う方向へ行くとのことだったので、新たに違うトラックをヒッチするため降りようとした。
そうしたら「この街は公安警察がいるので捕まるから、もう少し先の小さい街で下ろす」と言われた。
彼らはゲルツェの外れの食堂に入った。
そこで豪勢な食事で宴会をした。
僕はその中には加わらず普通の焼き飯を食べた。
あまり外を歩き回るなといわれたので自分の飯を食った後は中でボーっとしてた。
トラックは再び出発して、夜中に小さい街に着いた。
上乗せ要求されることもなく、約束していたお金にプラスして感謝のチップを渡してトラックを降りた。
途中、何度か運転手と険悪な関係になったが、最後にはよい感じで終わった。
ヒッチハイク④
運ちゃんに宿を教えてもらってそこへ向かって歩いていった。
宿はだだっ広かったが、便所には蛆が途方もなくわいていて、野糞に慣れていた僕はとても不潔に感じた。
疲れが一気に出て、次の日新たなトラックを探すのがとても面倒に感じながら寝た。
朝になったが 疲れが溜まっていて身体は重く、思うように動かなかった。
僕はゆっくり起きて、荷物をまとめてなんとか宿を出た。
Nさんはそんな自分に呆れて先に行った。
また別々に行くことになった。
村は道沿いにあり、村の端で道が2股に別れていた。
村人にどちらの道が僕の目的地へ向かう道かを確認し、道沿いに立ってトラックを待った。
でも数台通ったトラックには全て断られた。
朝を過ぎて昼近くになるとトラックは全く通らなくなった。
太陽が高くなって、次第に暑くなってきた。
そこでまたNさんと合流した。
待っていた場所の近くに家があった。
そこには井戸があって、近所の人が汲みに来ていた。
その家の日陰に入って「今日はもうトラック来ないかな」と道を見ながら待った。
その家の男が出てきて事情を話すと「もうすぐ兄が車に乗って帰ってくるから金を払えばそれで行ってやる。中で待ってろ」と言ってきた。
聞いたら車はランクルとのことだった。
これはいいと思ってトラックを探しつつ、ランクルを待った。
でもずっと待ってもランクルは戻ってこず、トラックも通らなかった。
昼をかなり過ぎてお腹がすいたので、村を歩いて食堂を探した。
ラーメン屋を見つけて入った。 ウイグル系の主人がやっている店で、大盛を食べた。
手打ちの麺でかなり美味かった。
飯を食ってからまた元の場所に戻ってトラックが通るのを待った。
ぼーっと、地平線と雲を見ながら。
夕方になってランクルが帰ってきた。
期待して交渉したが、金額は予想以上に高く、おまけに荷台に乗るということだったので諦めた。
日が暮れるまでは待って駄目だったらこの村でもう一泊して明日また探そうと思っていた。
そうしたら、トラックが数台連なってきた。
同じグループらしい。
僕は道に駆け出していって必死で頼んだ。
しかし、その一団のボスと思われる先頭のトラックの運転手に断られた。
その次のトラックにも断られ、その次も。その次も。。。
ボスがダメと言ったらみんなダメなのか?と諦めかけたその時、最後のトラックの運ちゃんが「いいよ」と言ってくれた。
しかも格安だった。
そのトラックグループのボスは彼が僕を乗せたことに少し不満だったようだが、彼はボスや他のメンバーから一目置かれる存在だったようで「あいつのやることならしょうがないか」という雰囲気だった。
荷物をトラックの後ろに積込んで助手席に飛び乗った。
トラックは日本製のISUZUでしかも寒冷地仕様なのか温かくて快適だった。
そのトラックの運転手はすごくいい人だった。
言葉は通じないが、とても優しい雰囲気が伝わってきた。
家族の写真も飾ってあった。
ただ、お酒が好きみたいで運転しながらガンガン飲んでいた。
出発してすぐに他のグループのトラックが故障して動けなくなっていた。
その人はお酒をぐいっと飲んで、雪が少し積もっている中、薄着でトラックの下に薄着で修理をはじめた。
そして結構長い時間やっていた。
夜になってテントの横にキャラバンすべてのトラックをつけて、中で食事をした。
ツァンパを差し出されたので、苦手なんだけどなと思いながらも食べてみたらすごくおいしかった。
今までのと違って味をつけてあった。
これ以降は普通の味のも含めて、ツァンパが大好きになった。
勧められてお酒も飲んだ。
身体も温まって、いい気分になった。
そのままテントの横でいつものように寝袋にくるまって寝た。
夜中、声がするので目が覚めたら、羊かヤギの赤ちゃんが寝袋に入った若い運転手(ボスの息子)の髪の毛を食べようとして攻防戦が繰り広げられていて面白かった。
朝になって出発した。
途中、すごく雪が降った。
雪やら泥やらでぬかるみができていて、仲間のトラックが2回はまった。
みんなで雪中から引っ張りあげた。 昼飯は雪の中で食べた。
トラックの荷台にガスボンベを積んであり、それを降ろして温かいスープを作って分けてくれた。
ツァンパは昼とは味付けが変えてあり、とても美味しかった。
その後、雪の中をゆっくり走った。
太陽が出てきて、強い日差しが雪に反射して目が痛くなった。
運転手は当然のごとくサングラスをしていたが、自分のサングラスを荷台の荷物の中だった。
夜になった。
夜はトゥクパという、うどんを作ってくれた。
またお酒も飲んで、ちょっと雪が降る中、酔っ払って寝袋に入って寝た。
目が覚めたら大きなビニールシートが上にかぶせてあった。
寝ている間に雪が強く降ってきて、濡れない様にかけてくれていたのだ。
さりげない優しさがうれしかった。
ラツェから乗ったトラックより、快適に過ごせるようにいろいろ工夫していた。
朝は雪の中、ゆっくり朝食を食べた。
シートを片付けて出発して、のんびり走って阿里に着いた。
僕を乗せた運転手の人に心からお礼を言って約束のお金を渡した。
あと、途中の店で内緒でお酒を買っていたのでその運転手とボスに渡した。
ボスは最初「こういうことをする必要はないんだ」と返そうとしたが、こちらが頼んで受け取ってもらった。
このボスと自分を乗せてくれた運転手をはじめ、グループの人たちは皆とてもいい人だった。
ヒッチハイク⑤
阿里は開拓の村みたいな感じで活気があった。 空港も建設中だった。
招待所にチェックインした。
トイレはその招待所の中にはなく、外の公衆便所を使えとのことだった。
阿里の役所に行き、ビザを延長した。
とても感じの良い人が担当だった。
ここでのビザは他の都市と違ってプリンタ出力によるシールでなく、手書きだった。
そのため後でネパールへ抜けるときに国境でかなり疑われたが、「阿里で延長した」という言葉が何とか通じて「ああ、阿里か。じゃあ仕方ないな。」といった感じになり抜けることができた。
食堂でビールを飲んで、晩御飯を食べて、日記をまとめて書いて、ぐっすり寝た。
翌朝、ヒッチハイクをするために道に出た。
なかなか見つからなかったが、小型トラックの吹きっさらし荷台で、セメント袋(?)の上ならOKという人がいて、乗ることにした。
6時間ぐらいなら大丈夫かと思ったが、セメント袋の上に寝転がって真っ白になって揺られていくのはかなり辛かった。
そして岩山に囲まれた道を走っていくのでちょっと怖いなと思った。
あとでラサで聞いたらその2週間後ぐらいに、同じぐらいの場所で落石があって旅行者が亡くなったとのことだった。
相変わらず、パンクや故障を一緒に直しながらトラックは15時ぐらいにツァンダに着いた。
ツァンダで宿を確保してぶらぶら散策した。
大渓谷がすごくて距離感を失いそうな風景だった。
食堂に入ったらCCTV(中国中央電視台)の人達がいて、この付近で新たな遺跡が見つかったのでその取材に来たと言っていた。
連れて行って欲しいと若い人に頼んでみたところ、上司に聞きに行ってくれたが、結局断られた。
あと、食堂にはフランス人の老夫婦がいた。
仏語ができるチベット人ガイドと運転手を雇ってランクルをチャーターして個人旅行をしていた。
多分、ツアーが禁止になる以前に出発してのんびりまわっていたのだろう。
こういう旅をする日本人の老夫婦はあまりいない。
「チベットはどうですか?」と英語で聞いたら 両手を挙げて満面の笑顔で「Wonderful!」と返してくれた。
あんな風に年をとっても旅行したいなと思った。
翌朝、ヒッチハイクをするために道に出た。
カイラスのふもとの町のタルチェンにいくトラックはなかった。
阿里行きのトラックに乗って途中にあるタルチェンに行く分岐のナムルという町で降りることにした。
また荷台だった。
でも途中で座席と助手席の人が代わってくれたりして気を遣ってくれたのがうれしかった。
ナムルには昼過ぎに着いた。
ナムルの茶館でご飯を食べてトラックを探したが来なかった。
そのまま茶館で泊まった。 翌朝、ヒッチハイクをするために大きな道に出た。
荷台に人があふれそうなほどのっているトラックが通りかかって、乗せてくれることになった。
はみ出て落ちそうだったが、何とか乗れた。
門土という村にチェックポストがあってお坊さんが乗ってきていろいろ話した。
荷台はやはりしんどかったが、お坊さんが「あれがカンリンポチェだ」と言って指差した先に目的のカイラス山があった。
今まで見てきたヒマラヤの山々とは異なる山だった。
カイラスの麓の村、タルチェンの宿に泊まった。
そして、カイラス山を巡礼(山の周囲をまわる)した。
途中で会った外国人はカシュガル方面から来たカメラマンの日本人と五体投地しているインド人修行者だけだった。
インド人と少し話して住所を交換した。
あとでデリーに行ったとき、彼の寺院に写真を持っていった。
雨が強く降ってきて、ずぶ濡れになりながら小さな川をいくつか越えた。
そしてカイラス北面の小屋に泊まった。
夜中に目が覚めて、外に出た。
月光に浮かび上がったカイラス北面を仰ぎ見たところ、畏怖の念を覚えた。
どれぐらいの時間か分からないが立ち尽くしていた。
その夜はすごく寒く、そして極度に疲れていた。
自分は顎関節症の持病があって、寒いと顎を固く閉じて(噛み締めて)、口を開けると顎が痛くなるし、それに伴ってよく頭痛が起きる。
特に疲れているとそうなりやすい。
その症状には長いこと悩まされていたし、チベットを旅している間もそれが何度かあった。
しかしこの夜は逆のことが起きた。
いきなり頭蓋や顎からバキバキと音がした。
何が起こったのか分からず驚いた。
気づくと顎関節と頭はこれまでにないほどスッキリしていた。
自然に自己調整したようだ。
場に何らかの要素があるのか心的要素か、その両方か。
はっきりしたことは分からない。
カイラスを巡礼した後、マナサロワール湖まで行くことにした。
早朝に歩きで出発した。
冷たい小川を靴を脱いで裸足で渡った。
途中でヒッチハイクできるだろうと思っていたが、車は通らなかった。
近道をしようとしたけど道を見失って、テントを張っていた遊牧中のチベットの女の子に方向を教えてもらって助かった。
メインの道に戻るとヤクの移動をしている人たちと会った。
方向が同じだったので、共に歩いた数キロは荷物をヤクに載せてもらえた。
日が暮れ始めて、このまま着かないと野宿になるかなと思った。
でも先のことは考えず、とにかく一歩だけに集中した。
一歩進んだらまた次の一歩のことだけを考えて丘を登っていたら、空が黄金色になった頃にマナサロワールが見えてきた。
そしてどっぷり日が暮れるころ、マナサロワール湖畔のチウゴンパに着いた。
14時間ぐらい歩いた。
そしてゴンパに泊まった。
翌日は湖の周辺を散策した。
マナサロワール湖からの帰りは途中でトラックをヒッチできて、またカイラス山のふもとのタルチェンに戻った。
タルチェンから観る夕日はとてもきれいで、暗くなるまで毎日ずっと観ていた。
タルチェンではこちらが自然と「聖者」と呼びたくなる佇まいの人がいた。
インドを旅しているとそれっぽい人は多いが、その人は何か雰囲気が違った。
威張ったところ、気負ったところが全くなかった。
話しかけたところ、その人はインド人で聖地から聖地を何十年も旅しているとのことだった。
周囲のチベット人も彼に対してとても丁寧な扱いをしていたのが印象的だった。
その人に長年聞きたかったことを聞くことができた。
あと、自分は阿里まで戻ってビザを延長してまたカイラスに戻ってこようかと考えている、と話した。
そうしたら「もうあなたは下りた方がいい」と言われた。
その後、タルチェンからカイラス南側の内院を小さなゴンパに寄りながら一日かけてのんびりと歩いた。
そして阿里に戻ることにした。
ヒッチハイクしようと早朝道に出た。
途中ものすごく冷たい川を裸足になって歩いて渡って、道で夕方まで待っていたのだが車をつかまえることはできなかった。
また、冷たい川を渡ってタルチェンに戻ったら、ちょうどタルチェンに石(おそらく建築用の石)を運んできたトラックがまさに出発するところだった。
3人乗っていた。
「ティルタプリに行く?」と聞いたら、行くとのことだった。
荷台に乗って出発したら、トラックは途中で崖の下に行って石を積み始めた。
自分も石を積むのを手伝ったが、かなりの重労働だった。
荷台が石でいっぱいになったら出発した。
僕は石の上に乗ったが、揺れるとかなり危なっかしい。
そしてどこか小さな村に着いて、「石を全部下ろす」と言われ、それも手伝った。
その後、どっぷり日が暮れる頃になってようやくティルタプリに着いた。
最初に約束したお金を払おうとしたら、彼らは話し合って「手伝ってくれたから無料でいいよ」と言ってくれた。
ティルタプリでは明かりのない宿に泊まった。
翌朝、一人で温泉に入った。
温泉といっても20cmぐらいのぬるま湯で入っているのは自分一人だった。
そして、またヒッチハイクをした。
今度は何人か労働者を荷台に乗せたトラックだった。
荷台に乗ったら隣の人が話しかけてきた。
言葉はあまり分からないが、彼はなぜか自分に淡々と話してきた。
彼は若かったが、かなりつらい人生を送ってきたようだった。
ずっと話を聞いていた。
とても印象に残った青年だった。
そして阿里に戻った。
阿里では思わぬ再会があった。
行きに泊まった宿に再び泊まることにしたら、旅行者が2人いたので話しかけた。
検問が比較的ゆるかったカシュガルの方からヒッチハイクをしてきたとのことだった。
話をしていたら、そのうちの一人の日本人男性と「お互いどこかで会ったことがあるような」、といった感じになった。
そして自分が先に気づいた。
その人は自分が大学生の頃に初めての海外一人旅でインドに行ったとき、ケララ州コヴァーラムビーチで出会った人だった。
7年ぶりの再会だった。
そしてその時のインドの思い出話やその後どうしていたかなどを、お互い話しあった。
その人もその時のインドが初めての旅だった。
当時の自分は悩み苦しんでいて、中学1年の時に死んだ父親を追い求めていた。
もう一度何らかの形で会えるなら死んでもいい、ぐらいに思って旅に出ていた。
その人もその人で深刻に思い悩むことがあり、インドに旅に出ていた。
最初の旅となったインドで二人ともドキドキしながら旅をした。
そして出会ったケララで最高に楽しい時を過ごし、満たされた。
それ以降、その人と連絡は取っていなかった。
阿里で話してみると、お互いそれから何度か海外を一人旅していたことは同じだった。
しかし、最初のインドを越える楽しさや深さはなかったという点でも同じ思いを持っていた。
その人も自分も多くのものをかけて今回の旅に出ていた。
そして二人とも、このカイラスへの旅は最初のインドを越えて楽しく、深さを感じていた。
その人と一緒にカシュガルの方からヒッチハイクをしてきた韓国人のカメラマンがいた。
日本人の彼女がいるらしく日本語が少し話せた。
彼ともいろいろ話をした。
その後3人でご飯を食べて、楽しい時を過ごした。
翌日、阿里の町を散策した。
ヒッチできるトラックターミナルなどを探していたら、なんとラサ行きのバスが出ていた。
値段も安めで(ヒッチよりは高いが)、外国人でも乗ることができるとのことだったので、帰りはバスに乗ることにした。
バスの中は若い兵士で一杯だった。
ラサの基地に移動するか、休暇なのだろう。
バスは夜中も走り続けた。
途中で故障したが、兵士達が直していた。
行きに歩いて通ったラチェの検問を通り、シガツェを通り、ラサに着いた。
すごく早く感じた。
これなら会社を辞めてこなくても休暇でカイラスに行けたかもと一瞬思ったが、これまでの過程すべてが素晴らしかったので、これでよかったとすぐ思った。
そしてラサでしばらくのんびり過ごした。
ラサでは鳥葬を見に行ったり、毎日美味しいご飯を食べたりしてゆっくりした。
その後、ネパールに抜けることにした。
ツアーで行かず、また個人ヒッチで行くことにした。
宿に一人、ヒッチでネパールに行きたいという日本人旅行者がいたので一緒に行くことにした。
再びシガツェまでバスで行き、一泊して、翌日許可証なしでラツェまで行った。
もう慣れていたので不安はなかった。
そしてラツェでまたヒッチハイクをした。
そうしたら、農家の人が作物を運ぶトラクターで一緒に検問を越えるのでそこでトラックをつかまえればいいと言ってくれた。
共産党の式典に伴なう厳重な検問はもう終わったようだった。
カイラスに行く時に夜中歩いて越えたラツェの先の検問は、昼に農民の格好をして(貸してもらった服を上に羽織った)トラクターに乗って越えた。
そしてそのトラクターの持ち主の家の物置に一泊した。
翌朝、道に立ってヒッチハイクをしたら旅行者を乗せたランクルが通った。
乗員(旅行者)が少なかったので乗せてもらえることになった。
念願のランクルはとても快適だった。
エベレストに登る道への分岐の村で休憩したりしながら、順調に走った。
最後に崖沿いの細い道を急激に下った。
ここは時々車が転落する場所らしかった。
高度が下がったので気温や湿度が上がってきたし、木々が目に付くようになった。
そして夜になって国境の町に着いた。
チベット側の宿で一泊した。
そこでドイツ人女性がいたのでいろいろ話した。
彼女は漢方薬を栽培することでチベットを経済支援するボランティア活動をしている人だった。
このエリアは漢方薬がいろいろ採れる場所とのことだった。
宿で話をする際に、盗聴を心配して彼女が部屋を入念に調べていたのがとても印象に残っている。
ドイツに来たら家に泊まっていいよ、と言ってくれた。
翌日、国境を越えた。
延長ビザがスタンプと手書きだった(普通はコンピュータ発行のシール)ので、係官がジロジロ見て周囲と話していた。
ひょっとして駄目なのか、と思っていたところ、その係官が疑わしげに
「これはどこで延長したんだ?」
と聞いてきた。自分が
「阿里」
と言ったら、
「あー、阿里か。」
と皆さん納得していた。
あそこはド田舎だからしょうがないな、といった感じだった。
結局、ヒッチハイクをしたトラック(ランクル1台含む)は全部で11台だった。
いろいろ揉め事はあったけど、とても楽しかった。
鳥葬
西チベットを廻った後ラサに戻り、のんびりくつろいでいた。
そんな中、宿にいた日本人女性と話をした。
その女性が言うには
「一週間前、鳥葬を見るために何人か集めてツアーを組んでお寺に行ったけれど死体がなくて見れなかった」
とのことだった。
その女性は「どうしても見たいからもう一回行く」
とも言った。
でも人が集まらないらしい。
自分も行きたかったので、一緒に行く人を集めるため旅行者が泊まる安宿の掲示板にその旨を書いた紙を貼った。
初めて鳥葬の存在を知ったのは、いつだったか忘れてしまったが、大分前のことだと思う。
大学生の頃、はじめてインドに行った時にヴァラナシでみた火葬が衝撃的だったこともあり、鳥葬は更に神秘的な感じでいつか見てみたいと思っていた。
チベットは乾燥が激しく動物も人間も死体がなかなか腐らない(西チベットでミイラ状の動物の死体を見たこともあった)。
また、チベットは土が堅いので土を掘り返すのは大変だし、木が少なく薪が集めにくい。
鳥葬はチベットという風土にあった死体を葬る方法なのだろう。
ただし、お寺に払うお金が結構かかるとのことなので、貧乏人には無理らしい。
その女性は行きたいと言いつつ、ほとんどメンバーを探さなかったのでそれ以外の人たちで仲間を増やした。
鳥葬の見学は週一回、月曜日にラサ近郊のお寺で行なわる。
車を1台チャーターし、寺で1泊して翌日早朝の鳥葬を見るというのが見学のパターンらしい。
料金を頭割りし、尚且つ車に乗れる人数を考えると5人は集めようということになった。
結局、全部日本人で集めた。
・言い出した女性
・前回も参加したが見れなかったアメリカ在住カメラマンの女性
・大学生の女の子
・チベット旅行のベテランのよしさん
・僕
の5人が集まった。
その言い出した女性がチベット語が少しできるので、旅行会社を通じず独自のルートで車の手配をすることにした。
しかし、それが相場よりもかなり高く、みんながブローカーのチベット人に文句を言った。
そうしたら、その女性はヒステリックに
「チベット人はね、抑圧されていてかわいそうなの。それが分からないの?」
と言った。
それとこれとは別問題だろう、とみんなが思ったが、どうも言えない。
その人には妙な迫力があったし、外国人が1人でも混じっていればそうはならないのだけど、日本人だけの集まりになると皆さん自然に和を尊ぶ。
その女性は他のことでもかなりわがままなで、前回のツアーでも散々他のメンバーを引っ張りまわしていたと後でカメラマンの女性から聞いた。
その人以外のメンバーは逆に皆さんとてもいい人だった。
カメラマンの女性は人々が祈る姿を撮るためにチベットに来たと言っていた。
最終的に金額は相場よりちょっと高いぐらいで収まった。
出発当日。
15時ぐらいに出発だったと思う。
その前に食堂に行って晩飯用にお弁当を買って、車に乗り込んだ。
車は古ーいランクルだった。
僕とよしさんの男二人がなぜか助手席に二人で詰めて乗った。
窮屈だった。
女性3人は後部座席に悠々と座った。
車は強い日差しの中走り、日がどっぷり暮れた頃に山の上のお寺に着いた。
疲れ果てていたところ、お坊さんから説明があった。
今のところ鳥葬を行なう死体はないとのこと。
もし明日の朝に死体が来れば行なうらしい。
空振りか、との声が他の見学者から聞こえた。
夜になって僕は弁当を食べた。
ラサで昼に買ったお弁当で、ご飯の上に2,3種類の惣菜をかけたものだった。
それは来る時ずっとランクルのダッシュボードの上においてあった。
つまり何時間も強烈な日差しをたっぷり受けていた。。。
食後、睡眠をとるためお寺の布団に入った僕は、夜中に目が覚めた。
猛烈な腹痛と便意と共に。
最大限のヤバさだった。
トイレットペーパーと懐中電灯を持った僕は這うようにして、トイレに行くために外に出た。
トイレを探していたら野犬か飼い犬か、物凄い勢いで集まって吼えてきた。
いまにも噛み付きそうな勢いだった。
そんな犬の襲撃から逃れながらトイレを探したが、なかなか見つからなかった。
それで、仕方なく外で野糞をすることにした。
チベットの荒野と違ってお寺の周囲でするのはためらいがあったが、犬が集まってくる中、泣きそうになりながらちょっと岩の奥まったところで野糞をした。
明日誰かに発見されても、どうか犬のうんこと勘違いしてくれ、と思った。
しかし、懐中電灯で照らして見ると、とても犬のうんこには見えなかった。。。
部屋に戻って薬を飲んでも腹痛と下痢は治まらず、その後何回も外に出て野糞をした。
そんなこんなでほとんど眠れないまま朝を迎えた。
一旦起きて聞いたら死体はまだ来ていなくて、9時まで待って来なかったらラサに戻るとのことだった。
お腹の調子はは落ち着いてきて、ベッドでうとうとしていたら「死体が来た」との声がぼんやり聞こえた。
正式に死体が到着したとの連絡を受けて、見学者は外に出た。
絶対に写真を撮るなと念を押された。
カメラマンの人は特に強く言われていた。
広いお寺の境内のようなところで、死者の肉体から魂を抜き出しあの世へ送るという儀式が行なわれた。
この儀式により、肉体はただの肉となり、鳥に食べさせることができるようになるとのことだった。
死者は若い女性だった。 家族、親族が儀式を見守り、見学者は遠くからそれを眺めた。
その儀式が終わると鳥に提供する肉体を山頂に運んだ。 見学者も山を登った。
自分は身体が衰弱していてかなりきつく、遅れ遅れで歩いた。
1時間ほど山を登って山頂に着いた。
山頂にはすでにハゲタカが集まって上空を舞っていた。
物凄い大きさで、数も半端ではない。 恐ろしかった。
大きな岩があり、そこには血肉がしみ込んで異様な臭いがしていた。 そこの岩の上で鳥葬は行なわれるのだ。
岩の上に死体をおき、何かまた少し儀式があり、その後大きなエプロンをつけた人達が大きなナタのような刃物で死体を切り始めた。
肉が飛び散り、血しぶきが舞った。
ハゲタカが空から降りてきて食べようとするが、切っている人達が、「まだだ」とハゲタカを追い払う。
自分は少し離れた場所からみていた。
最前列から見ているのは女性が多かった。
心臓だけは取り出して別のところに置いてあった。
肉が大まかに解体できた時点で、ハゲタカを迎え入れた。
すごい数のハゲタカが一斉に群がった。
それぞれ大きさは1m以上はある。翼を広げたらもっとあるだろう。
肉は取り合いになっていた。
あっという間にハゲタカの頭は真っ赤に染まった。 外から見ているとハゲタカの密集が動いていく様子で肉塊がどこにあるか分かった。
肉の塊が無数の口ばしにつつかれて、あちこち移動した。
目玉がつつかれて食べられる様もはっきり見えた。
大体、食べ終わった時点で、一度ハゲタカは追い払われた。
その時、残っていたのは頭蓋骨とそれに連なる背骨、骨盤などの骨とそれについている血管、髪の毛などだ。
遺体を岩の中央に戻すため、頭蓋骨が持ち上げられると、背骨がつながっていた。
理科教室の標本のようだった。
骨はハンマーで砕かれ、再びハゲタカを呼び込み、食べさせた。
心臓をどうしたのかは記憶が定かでない。
恐らく最後に食べさせたのだと思う。
僕はハゲタカが肉体を食べるのをさっきから更に離れた場所で草の上に座って見ていた。
身体が衰弱していたこともあり、ちょっと気分が悪くなった。
よしさんが数珠を手に、何か念仏を唱えていた。
その姿はとても印象的だった。
ハゲタカはすべて食べ終わると空に舞い上がっていった。
ぐるぐる旋回しながら。
死者の肉体はハゲタカの身体の一部となって、天に向かった。
これで鳥葬の見学は終わった。
後でわがままだった女性と話した。
日本でチベット支援の活動をしたり、精神的な病を抱えているとのことだった。
そしてチベット旅行のベテランよしさんともいろいろ話した。
毎年チベットやインドを旅しているとのことで、自分がカイラスで会ったカメラマンの人とも知り合いだった。
彼も日本で少しチベット支援の活動をしていたが、違和感を感じてやめたとのことだった。
彼はとてもチベット文化に馴染んでいて、優しい人だった。
鳥葬を見た数年後、会社員として東京で遅くまで残業をしていた時によしさんからメールがきた。
喜んで開いた所、よしさんの親御さんからだった。
よしさんがインドのラダックのトレッキング中に行方不明になったので何か知りませんかとのことだった。
その当時インドを旅をしていた知人にメールして聞いてみたが、結局何も分からなかった。
セーター
チベットからネパールに入った。
荒涼としたチベットから一気に下り、ネパールとの国境近くでは木が生えていて、湿度が高く、空気も濃かった。
ネパールに入るちょっと前に、国王一族が皆殺しにされるという事件があった。
一人だけ無事だった男(王の弟)がいて、その人が国王になって悪政をして結局追い出されたという怪しすぎる事件だ。
その影響で一時的に国境が閉ざされ、ようやく開いたところだった。
当時マオイストと呼ばれる一派(今では政党)が農村でゲリラ戦をしかけていて、たびたび強制ストを行わせていた。
その結果、バスが止まったり、宿屋や飯屋が閉店していたりした。
そんな中、ネパールに入った。
国境付近の村は少し緊張感が残っていたが、快適だった。
カトマンズでは日本食を食べたり、本を読んだり、のんびりしていた。
そこでトレッキングに行くことにした。
自分は山登りが好きだ。
本格的な登山ではなくて、のんびり自然の中を歩くのが好きだ。
好きになったきっかけは学生時代のトレッキングだ。
大学生の頃に初めてネパールに行ったときに何気なく短期間トレッキングに行ったらすごく楽しくて好きになった。
その後、日本でも山に登り始めた。
そして就職してから休暇を取って一人で2週間アンナプルナへトレッキングに行ったらすごく楽しかったのでまた行きたいと思っていた。
カトマンズで仲良くなった人などに声をかけて、総勢5名でランタンへトレッキングに出かけた。
ところが1人(偶然にも同じ高校の後輩だった)が下痢で初日で脱落し、もう1人(アメリカ在住の画家)が彼に付き添って山を降りた。
結局自分とオランダ人のパトリックとチベットから一緒だった日本人女性の3人で行くことにした。
パトリックは確か僕より1つか2つ年下でバツ1、子供1人。
なんと自分の親に子供を預けて旅をしていた。
身長190cmを超える大男で荒っぽい男だった。
英語力は自分と同じぐらい。
トレッキングに出たものの、雨季まっさかり。
毎日雨に打たれ、ヒルに血を吸われた。
僕はそれまでの2回のトレッキングが乾季だったので、雨季のネパールで山を歩くつまらなさ、辛さを知らなかった。
景色が見えないばかりか、毎日雨が降り、川が増水して道がなくなっていた。
乾季だと宿に着くとすぐお茶を飲んでゆっくり景色を眺めてという素晴らしい日々なのだが、雨季だとまず身に着けている物を乾燥させなければならない。
これがかなりのストレスだったし、カトマンズで買ったトレッキングシューズ(海外ブランドの偽モノ)は内部が腐ってきて大変だった。
しかし3人というのがなかなか面白くて、何とか英語で会話しながら予定通り歩いていった。
パトリックはいかにも白人らしくTシャツに短パン+カッパというラフな格好で歩いていた。
しかし標高4000mを超えてくると、さすがに寒くなってきたようでセーターを貸して欲しいと言ってきた。
そのセーターは友人から貰ったもので、僕には少し大きいがもう少し寒くなったら着ようと思っていたものだった。
僕も寒いのだが、ここまで一緒に来たので、そのセーターを彼にあげると言った。
でも奴は貸してくれるだけでいいと言った。
荷物になるのが嫌なのだ。
なんて勝手な奴だと思ったが、セーターを貸した。
そして雨が降ってきたら何も言わずに強引に伸ばして自分のカメラが入ったリュックを覆った。
僕は雨の中それを見て、「絶対に叱ってやる」と心に誓った。
しかし、なんせ相手は
身長:約190cm、職業:大工、空手経験:有、しかも短気な男。
なんとか自分の拙い英語で反論の余地がないように落ち着いてとっちめてやると心に誓った。
頭の中で言いたいことを組み立てた。
目的地に到着し、山の上の湖(ゴサインクンド)で年に一度の祭りを見た。
寒くて湖はとても冷たかったため、湖に入ることはとてもじゃないけどできなかった。
そして山を降りはじめた。
高度が下がり暖かくなってきた頃、その時が来た。
奴がセーターを返そうとしたところ、
僕は「それは僕が大事な友人からもらったセーターだ。お前は自分のカメラを守るためにそのセーターを伸ばした。そうする前に僕に一言了解を得る必要があったんじゃないか?」と言った。
彼はいろいろ言い訳をしたが、最後は概ね自分の非を認めた。
英語はいまいちでも24時間寝食を共にしていたので何となく伝わったようだ。
山を下りてからもカトマンドゥで時々一緒に飯を食った。
お互い黒ビールが好きだった。
カトマンドゥで別れて僕はインドへ向かったが、奴とはその後インドのバラナシで偶然再会した。
なんと女連れだった。
ネパールで出会った年下の白人旅行者と付き合い始めたとのこと。
女性はかなり可愛かった。
そして「あなたはあの粗暴なパトリック君ですか?」と言いたくなるほど穏やかな雰囲気になっていてびっくりした。
それっきり奴とは連絡をとりあっていなかったが、何年か後にメールをしたら彼はまた旅(チベット・ネパール)に出ているところだった。
セーターは今も実家のタンスにしまってある。
本
期間を限定しない旅をしていると、その途中で気に入った街や村にのんびり滞在する。
そうすると無性に本が読みたくなる。
日本から本を持っていったり、途中で日本から送ってもらったりすることの他に、
1)旅人同士(日本人)で読み終わった本を交換する
2)宿(日本人がよく泊る)においてある本を借りる
3)日本大使館などで借りる
4)古本屋や日本食を出す食堂などで借りる
などの方法で本を読んでいた。
ネパールのカトマンドゥやポカラには日本の本やマンガがたくさんあって、のんびりするにはもってこいだ。
エチオピアの日本大使館も本が充実していたのでどっぷり読み漁った。
旅人同士、好きな本の傾向は似ている部分があるようで、同じ本に何回かめぐり合ったこともある。
そんな本のひとつにパウロ・コエーリョの「アルケミスト」があった。
それからパウロ・コエーリョの本を読み始めた。
旅の後に読んだ「ザーヒル」はそれほど面白いとは感じなかったが、引用してあった詩が印象に残った。
↓下がその詩
“君がイタケに向けて旅立つとき
どうか君の旅路が長いものでありますように、
それが冒険に満ち、知恵“富んだものとなりますように。
ライストリュゴネスもキュクロプスも、
また猛りたつポセイダオンも恐れることはない、
君が道中、それらに出会うことはないだろう、
もし思いを高く保ち、気持ちが君の身体と君の精神を決して離れることがなければ。
ライストリュゴネスもキュクロプスも、
また猛りたつポセイダオンも 君の道にはあらわれないだろう
もし君自身の魂の中にそれらが住みついているのでなければ、
もし君自身の魂がそれらを君の通り道に置くことがなければ。
私は君の行く道が長いものであることを願っている。
たくさんの夏の朝がありますように、
初めての港を目にする歓びが これまでにない歓喜をもたらしてくれますように。
フェニキアの市場を訪ねるがよい、
そして最良の品々を手に入れるがよい。
エジプトの都市に行くがよい、
そして教えるものを数多もっている彼らのもとで学ぶがよい。
イタケを視界から失ってはならない、
なぜならそこにたどり着くことが君の目標なのだから。
しかし歩みを急いではならない、
旅路は幾年も続くほうがよいのだから、
そして君の船が島に錨を下ろすのは
道中で学んだものごとによって
君がすでに豊かになってからのほうがよいのだから。
イタケが君にさらなる富をもたらすことを期待してはならない。
イタケはすでに美しい旅を君にあたえたのだから、
イタケがなければ、君は旅立つこともなかったのだから。
イタケはすでに君にすべてをあたえたのであり、
それ以上あたえるものはないのだから。
もし、最後にいたって君が、
イタケは貧しいと思っても騙されたと思うことはない。
なぜなら君は賢人になったのであり、
濃密な人生を生きたのだから、
そしてそれこそがイタケの意味するところなのだから。”
コンスタンティノス・カヴァフィス
タブラ
ヴァラナシでタブラを習った。
期間は3週間ぐらいで個室の宿に泊まり、タブラの先生の家に通っていた。
以前はレコードも出した先生だった。
毎日朝起きて顔を洗って歯を磨いて出発し、先生の家に行く途中の店で陶器に入った小さいヨーグルトを朝食がわりに食べた。
先生の家は石造りでひんやりして、風もよく通り涼しかった。
昼ごはんは先生とそのご家族と一緒に食べていたが、とても美味しかった。
タブラに少し触れたい知りたいという気持ちでのんびりやっていたが、先生は毎日、基本を根気よく教えてくれた。
自分はピアノを保育園の頃から小6ぐらいまで習っていたのだが、そこの女の先生はヒステリックで怖い人だった。
そのためピアノも嫌いになったが母親は辞めさせてくれず、ろくに練習しないまま年1回の発表会をこなすというだけだった。
逆に小学生の頃、地元のお祭りで太鼓を叩いていたのだが、それは大好きだった。
最上級生が太鼓を叩くのだが、普段仕事で忙しかった父親が祭りの世話役に入っていて、その父親から太鼓を習ったのはよい思い出だった。
タブラは嫌な思い出のピアノと良い思い出の太鼓を足して2で割ったような感じだった。
最初は手がなかなか動かなかった。
手首や肘がガチガチだった。
そしてやっていくにつれてピアノの時のことを思い出して(間違えると怒られると思って)余計に固くなってしまう。
そんな自分をタブラの先生は全く怒らず、穏やかに少しずつ教えてくれた。
宿に戻っても練習を続けて少しずつ手首や肘の緊張が解けていった。
後で聞くと、日本人の生徒はこれまで何人かいたが、その一人が毎日凄まじく練習していたとのことだった。
そしてその生徒は演奏家になったが、のちに自殺したとのことだった。
自分はその生徒に何となく似ていたらしい。
それもあって自分に優しかったようだった。
「彼のように突き詰めすぎるとよくないけど、あなたはもう少し練習しなさい」と言われた。
レッスン期間の途中、先生一家(一族)のタブラをはじめとするインド伝統音楽のコンサートを聞きにいった。
コンサートは普段習っていた先生の家ではなく、ヴァラナシの奥まった場所にある石造りの古く小さなホール。
とても音が響くホールだった。
伝統的な建て方なのだろう。
そこにみっしり入った聴衆の中に自分も加わった。
コンサートは音とリズムに引き込まれた。
不思議な感覚だった。
その晩は明け方までリズムが身体を駆け巡り全く眠れなかった。
満月でもないのに一晩中気分が高揚した。
その後、イスタンブールに行ったときに大きな会場でインド伝統楽器のコンサートを見に行ったが同じようにはならなかった。
違いは奏者のレベルなのかホールなのかは分からない。
先生は 「私は調子が悪い時は人前で決して演奏をしない。プロとしてそれはしてはいけないことだ。」 と言っていた。
それだと海外の大きな会場でコンサートなどは難しいだろうと思う。
当日キャンセルしたら大変なことになるだろうから。
先生はヴァラナシの、音がよく響く小さいホールで、自分が思うようなコンサートをして満ち足りていたのだと思う。
そして実際に小さなホールのコンサートで自分は想像以上に圧倒された。
その後、自分はより真剣に練習に取り組んだ。
腰を据えてタブラの練習をするために英語やヒンディー語を習う準備をしていた(その先生も見つかっていた)し、先生の息子さん(タブラ奏者)とも仲良くなっていた。
しかしよくよく考えた結果、自分はレッスンを終えることにした。
タブラを買って日本に送り、ヴァラナシを離れて西へ向かう旅を続けた。
カレー
自分はカレーが大好きだ。
日本のカレーも大好きだが、旅先で食べるカレーも大好きだ。
いろいろな国の安食堂やちょっと高級なレストランで食べた。
向こうで知り合った人のお宅に招かれて食べたこともあったし、キッチン付きの安宿で自炊して食べたりもした。
おいしいカレーを食べることができれば、幸せな気分になる。
カレーは長時間煮込んでいるので多少衛生状態が悪いところでもお腹を壊さないのが良い所だ。
しかし、同じカレー屋で2回お腹を壊したことがある。
それはインドのニューデリー駅前のカレー屋だ。
大学生の頃、最初にインドに行ってまだお腹が現地に慣れていない時に、現地の人しかいない飯屋にぶらりと入ってカレーを食べた。
その夜から2,3日間激しい下痢になった。
その3年後にまたインドに行った。
その時はインドに入る前にタイを回っていたので、お腹の現地対応には自信があった。
「本当にあの店で当たったのか確かめたい!」
という欲求が出てきて、事情を話して他の旅行者も連れてもう一度食べに行ったら、食べたみんなが当たった。
僕はその翌日下痢で苦しい中、次の目的地であるダラムシャーラーへ移動を開始した。
延期も考えたが、列車のチケットが買ってあったのとダライラマの説法の日が迫っていたので無理をして行くことにした。
途中まではトイレつきの電車だったので何度も駆け込みながら何とかなった。
だが、途中で列車からローカルバス(トイレなし)に乗りかえて山の上のほうにある目的地に向かうことになった。
「これはまずいな」と思ったが、とりあえずバスに乗った。
そうしたらしばらく進んだところで猛烈な便意が襲ってきた。
バスを止めて、待ってもらって草むらで用を足し、またそのバスに戻るということを2,3回繰り返した。
しかし、最後は苦しくなってバスの運転手に
「もう限界だから行ってくれ」と言い残し、完全に下車して草むらに駆け込み、用を足した。
その後、腹痛に苦しみながら木の下で寝転んでいたら、村人が集まってきた。
村人はとてもやさしく、次のバスがいつになるか分からず苦しみ横たわっていた自分を介抱してくれた。
何時間か経って、体調もよくなったところで、次のバスが来た。
目的の街に着いたあと、しばらく寝込んだ。
そのまた数年後にもインドに行ったが、さすがに今度はその店には行かなかった。
あの店、どうなってるんだろう?
マージャン
インドのデリーでイランビザを取ったりしてしばらくのんびりした。
そこで会った大学生の子と一緒にパキスタンとの国境に近いアムリットサルに行った。
そこはシク教の総本山のゴールデンテンプルがある。
ゴールデンテンプルはとても静かな寺院でリラックスできた。
そして国境を越えてパキスタンに入った。
ラホールはインドに慣れていた自分にとっても予想以上の喧噪だった。
フンザ行きのバスのチケットを買うのに疲れ果てた。
フンザは「風の谷のナウシカ」のモデルになった場所とも言われる(実際は違うらしいが)。
ボロボロのバスで狭い山道を走るので、時々バスが崖に転落するらしい。
ラホールから延々とバスに乗り、何とか辿り着いた。
風景が素晴らしく、良いところだった。
ヒマラヤの山々がよく見えた。
チベットともネパールとも違う顔だ。
その季節はリンゴが村中になっていて、好きなだけ食べることができた。
それがまたすごくおいしかった。
その後、日本で「奇跡のリンゴ」で有名な木村秋則さんのリンゴを食べたが、フンザのリンゴは木村さんのりんごに勝るとも劣らないおいしさだった。
宿では日本人旅行者が多かった。
長旅の途中の人が多く、年齢的にも自分と同じか上の人も多かったので楽しかった。
ネパールのインド大使館で出会った大学生の子もいた。
その人たちと情報交換したり、一緒にご飯を食べたり、フンザ近辺を周ったりした。
宿では夜になるとマージャンをやっていた。
僕は旅に出る前、自分にいくつか戒めをしていた。
賭け事はそのうちのひとつだった。
大学生の頃はよくマージャンをやっていて好きだけど、今回の旅ではやらないと思っていた。
自分はその時会社を辞めて旅に出ていたのだが、当面の旅行資金以外のお金は全て出発前に株にしていた。
本来、株はゆとりの資金でやるものとよく言われるが僕は全て替えた。
周囲には「経済感覚に敏感になるため」とか言っていたこともあったが、本心は「インターネットで株を売買して儲けて旅を続けよう」と思っていた。
日本を出て、中国の北京に入った時、小泉首相の勢いで結構プラスになっていた。
僕はマヌケなことにこの調子で行けば楽勝だと思った。
ちょっと売ろうかとも思ったが北京のインターネットがすごく時間がかかったのと、欲がでてきたのとで、売らずに旅を続けた。
その後、あまり株のことを気にせず、「少し下がってきたかな?また上がるだろう」ぐらいで気に留めてなかった。
フンザでのんびりくつろぎ、宿の皆がよかったと言っていたラカポシトレッキングに行った。
トレッキングはすごく楽しくて、景色もすばらしかった。
そしてトレッキングからフンザに戻った日が9月11日だった。
村中が大騒ぎしていた。
鉄砲を空に撃っている人もいた。
聞いてみたらアメリカで同時多発テロが起きていた。
村で数少ない衛星放送が見れる高級ホテルのロビーに行ってニュースをずっと見ていた。
フンザの若者たちはアメリカ嫌いなので「やったぞ!」といった雰囲気だった。
そして経済ニュースを見て目が点になった。
株価は購入時の半分以下になっていた。。。
その夜からマージャンを解禁した。
同じ宿の日本人旅行者達と現地のお金を賭けて一心不乱に打った。
株で失ったお金を少しでも穴埋めしようと思った。
しかしたとえマージャンで勝っても20円とか30円なので、できるわけないのだが・・・。
頭が混乱していて、フンザ仲良くしていた会社員旅行者の「角(かく)さん」のことを間違えて「すけさん」と呼び、同郷(愛知県出身)の大学生の子に「どうしたらそんな間違いができるのですか?」と驚かれたりした。
その後アメリカがもうじきアフガンを空爆するというニュースが流れた。
そしてフンザの旅行者の間では、アフガンと近いパキスタンとイランの間の国境が封鎖されたとの噂が流れた。
自分は西へ向かって旅をしていてそこを通るつもりだったので困った。
多くの旅行者がフンザからイスラマバードに下りた。
同じように西へ向かっていた何人かの日本人旅行者は日本政府が用意した飛行機でイスラマバードから日本に帰っていった。
(角さんは成田に到着後、TVの取材を受けたと後から聞いた)
他の何人かは西へ行くのを諦めてインドへ行ったりした。
そしてイラン入りを目指す日本人は周囲にいなくなった。
外国人の旅行者達も同じだった。
でも、自分は後に引けなくなって半ばヤケクソで一人イランに向かうことにした。
ある親子
イランに向かう前に、ラホール博物館に行った。
そして世界遺産でありガンダーラ美術の最高傑作とされている「断食するブッダ像」を見た。
素晴らしい像だった。
今では完全なイスラム国家であり、旅行者もいなかったので仏像を見ている人は誰もいなかった。
仏教に関する展示室は自分ひとりで貸しきり状態だった。
そして列車でラホールからイランとの国境近くの街、クエッタに行った。
パキスタンは新たなビザの発給、延長などをかなり制限していた。
日本の外務省など世界中から避難勧告も出ていたので出国する人はいても入国する人はいないという状況。
パキスタンでは旅行者はほとんどいなくなっていた。
特にクエッタは、当時アメリカによる空爆間近と言われていたアフガンからも近い。
列車がクエッタの駅に着き、宿を探しに街を歩いた。
アフガン人が大勢住んでいて、なんとも言えない殺伐とした緊張感が漂っていた。
商店などはほとんど閉まっていた。
宿を見つけて荷物を置いて、残っていた現地通貨を両替するために開いている両替屋を探してあちこち歩いた。
ここら辺はアフガンマジックという両替の際のすり替えテクニックが発達しているため、特に信用できそうな人を探した。
いろいろな人と話したが、多くはアフガン人だった。
彼らの多くはアフガンに戻ってアメリカと戦うと言っていた。
街中を歩いても旅行者は皆無だった。
何とか両替屋を見つけて両替した。
宿に戻ったところ、なんと日本人女性と5歳ぐらいの男の子が中庭で遊んでいた。
びっくりした。
話を聞いたところ、親子2人で世界中を旅行しているとのことだった。
「パキスタンビザが切れていて、イランに入れるかも分からない。
情勢からパキスタンビザ延長も認められそうにないし、罰金を払わされるかも知れない。
なので戦争のほとぼりがさめるまでここに居るつもりだ。」
と言っていた。
他にも日本人の旅行者が一人いた。
僕と彼とで材料費を出してその母親に料理を作ってもらった。
5歳ぐらいの男の子は以前、中国を旅行中に中国人とのあいだに出来た子供とのことだった。
その後離婚し、帰国したらしい。
日本では男の子の国籍取得の件で外務省と散々もめたが、最終的にはマスコミに記事にしてもらうと言ったら、相手はころっと態度が変わったとのこと。
男の子はとてもかわいい顔をしていた。
そして「母親って強いな」と思った。
あの子も逞しく成長していくのだろうな。
大人
パキスタンからイランに入ったら、クエッタのような緊張感は全くなかった。
ケルマンは荒涼としていた。
そんな中、やしの木が茂っているところへバスは向かい、遺跡の町バムに着いた。
バムでは後ろから来たバイクに乗った若い男に帽子を取られ、石を投げられたりするなどした。
イランでは僕ら黄色人種は「チーノ」(元々中国人と言う意味だが、黄色人種の蔑称)と言われることが多い。
道端で水タバコを吹かしているような老人でも、すれちがいざま小声で「チーノ」と言ったりする。
彼らは自分達がアーリヤ系民族で過去何度か大帝国を興したペルシア人ということに誇りを持っている。
これは後で行ったエチオピアでも全く同じだった。
エチオピアも過去に大帝国を興していて、また「俺たちは他のアフリカ人と同じではない」という意識が強い。
誇りそのものはいいのだが、それは現状に不満を持っている人にとっては他を見下す差別意識につながる。
それは世界中どこでも同じだろう。
また、失業率が高く、昼間からプラプラしている若者が多い。
イスラム教が色濃く影響した社会制度は若者のエネルギーを抑えており(かといって日本の状況がいいと言うわけでもないが)、若い男はありあまったエネルギーを外国人旅行者に向けたりする。
そんな訳で、イランで旅行者は結構もめる。
もちろんいい人もたくさん居て、バムでも自動車修理工場の人と仲良くなって、お茶をごちそうしてもらったりした。
バムから移動してシラーズという街に滞在していた時のこと。
ここで中国から何度か一緒になった日本人大学院生のM君と合流した。
そして一緒にペルセポリスを見に行くことにした。
ペルセポリスはイラン最大の遺跡だ。
中東3Pといも言われる3大遺跡ペルセポリス、ペトラ(ヨルダン)、パルミラ(シリア)の内の1つだ。
ペルセポリスに行く日の朝、朝食を食べようとシラーズの街をM君と歩いていたら道の脇の高い建物の窓から水を掛けられた。
明らかに意図的だったが、どこの部屋から水を掛けたのかは分からなかった。
かなりムカつき、それまでもいろいろ嫌な目にあっていた僕とM君は次に何かあったらやってやろうと話していた。
シラーズのバス停からペルセポリス行きのバスに乗った。
ここからペルセポリスまでは1時間で行ける。
遺跡手前のバス停に着き、僕達は降りた。
バス停はちょっと建物が入り組んだ奥にあった。 M君は先にバスを降りて遺跡の方へ歩き始めた。
そこですれちがいざまイラン人の若者に思いっきり腹をつねくられたらしく、荷物を放り捨ててそいつを追っかけていった。
僕は最初何が起こったか分からず、あわててバスを降り、彼の荷物を拾った。
M君の向かっている先には彼をつねった奴を中心に若者が何人かでたむろしていた。
イランの不良グループといった感じか。
M君は何も言わずズカズカと歩いていった。
僕はその時はまだ何がなんだか分からないまま彼の荷物を持って彼を追いかけていた。
M君は真ん中のつねった奴の前に立ち、相手が立ち上がる瞬間に思いっきりあご先を殴った。
腰の入ったいいパンチだった。
相手は後ろに吹っ飛んだ。
その後、そいつの周りにいた取巻きがM君を囲んで殴りかかった。
僕は最初止めようとしたが、逆に僕にも殴りかかってきて、それどころじゃなくなった。
最初パンチをよけていた(へなちょこパンチだったので)が、途中でメガネを外されてやばいかなと思い始めた。
M君の方を見ると彼は僕より分厚く囲まれて殴られていた(顔面は硬く防御していた)。
周囲の大人(バスの運転手など)は誰も止めなかった。
どれぐらい時間が過ぎたか分からないが、囲まれて殴りかかられていたので、随分長く感じた。
囲みを突破することもできず、「ナイフで刺されでもしたらどうしよう」と思っていると、相手が静かになり始めた。
どうしたんだろうと思って見ると、一人の男性が現れて不良グループを止めていた。
若者達は不満そうな顔をしながらも、その人の言葉に従っていた。
その人にはどうしても逆らえないようだった。
その人は政府の役人だった。
M君は興奮して「こいつが先につねったんだ」とその人に説明した。
その人は落着いた様子で、 「一部始終を見ていた者に話を聞いたのだが、彼らが悪い。君達はわが国のゲストだ。」 と言った。
僕もM君もかすり傷ぐらいで、たいした怪我はなかった。
メガネも無事戻ってきた。
ラッキーだった。
その後、その人はペルセポリスまで一緒に来てくれた。
途中でさっきの若者達が襲って来ないように気を使ってくれたのだ。
遺跡の中を案内をしてくれて、帰りはタクシーと交渉して僕とM君を見送ってくれた。
その人は「大人」だった。
高いモラルと内に秘めた誇りと教養を感じさせる、穏やかな雰囲気の人だった。
そういう人は外国に行くと時々会う。
その人のおかげで僕のイランに対する印象は少し変わった。
たこ八郎
イランから国境を超えてトルコのドゥバヤジットに入った時、ホッとした。
理由としては
①国境近辺で見えるアララット山がなんとなく富士山と似ていること。
②ドゥバヤジットの人たちが旅行者に優しいこと。
③食べ物が美味しいこと。
などがあげられる。
しかし、ただののんびりした町ではなく、軍事基地があり沢山の戦車も見えたのでやはり国境の街だと認識させられる。
ドゥバヤジットで美味しい料理をたくさん食べてのんびりした。
宿には日本人の二人組がいた。
旅人だけど貧乏旅行者ではない、遊び好きのちょっと変わった二人だった。
そして西へ向かった。
途中で日本とよく似た気候の土地があった。
それがリゼだ。
10月ぐらいの黒海沿岸の街リゼは、日本の梅雨と同じように毎日雨がしとしと降っていた。
そのリゼに1週間ぐらいいた。
同じく黒海沿岸にはトラブゾンという大きな街があるが、リゼは小さな町で観光客はほとんどいなかった。
なぜ僕がそんな街に行ったかというと、インドを旅行している時に会った人に薦められたからだ。
できればリゼから絵葉書が欲しいと言われたので、トラブソンに行く途中で寄ってみることにした。
内陸部のエルズルムからバスに乗って、山をいくつか越えた。
途中の山は木が生い茂って、キャンプ場らしきものもあり、何となく日本に似ていた。
やがて黒海が見えてきた。
海沿いの道をしばらく走り、夜になってリゼに着いた。
リゼに着いたあと、まずホテルを探した。
雨がしとしと降る中、僕が持っていたガイドブックにリゼは載っていなかったので、当てずっぽうで宿を探した。
町は小さかったのでホテルはすぐ見つかった。
値段を聞いて、部屋を見せてもらって、なかなか気に入ったので最初に入ったところに決めた。
ホテルはビルの5階で、フロントで子犬を飼っていた。
この子犬とはよく遊んだ。
外に出て、軽く晩御飯を食べて寝た。
久しぶりに魚を食べた。
そして翌日から町を歩き回った。
こじんまりした町だった。
ゲームセンターに入ると学生達が英語で話しかけてきた。
「何しにこんな町に来たの?何にもないのに。」 と不思議そうに言われた。
なかなかいい奴らでいろいろ話した。
道端でイスに腰掛けてチャイを飲んでいたおじいさんと目が合って、チャイをご馳走になった。
言葉は通じなかったがほのぼのした。
黒海の海辺で3人組の漁師に会った。
毎朝6時に漁にでるらしく、「明日連れて行ってくれ」と頼んだら「いいぞ」と言ってくれたので、翌朝眠い目をこすりながら待ち合わせ場所に行くと誰もいなかった。
その夜、ばったり会ったので文句を言ったら「ごめんごめん。明日はちゃんと行くよ」と言われたが、次の日は自分が寝坊した。
またその夜ばったり会って今度は僕が文句を言われた。
格闘技のジムを見に行ったら かっこいい先生が中・高校生ぐらいの子供にキックボクシングを教えていた。
子供の中に体は小さいけどすごく気が強い子がいた。
ライトスパーなのにガンガン殴り合って、特に自分より格上の子相手には思いっきり向かっていった。
それで相手も熱くなって本気で殴っていた。
その子の父親も見にきていて、その子のパンチが相手に当たるたびに叫んでいた。
先生は時々戒める言葉を発していたが決して止めなかった。
でも、あとでその子と相手の子は別の部屋に呼ばれて注意されていた。
僕は最初もし「ちょっとやってみる?」と言われたら体験でやってみようかと思っていたが、やらなくてよかったと思った。
ホテルは5階だったのだが、ある時、階段で下まで降りる途中呼び止められた。
そこは貿易会社の事務所だった。
とはいっても社長と秘書しかいなかったが。
チャイを飲みながら話を聞くと、日本にカエルの足と猪の肉を輸出しているとのことだった。
東京のフランス料理店がお客さんらしい。
輸出する肉の単価を見せられ、「日本ではいくらぐらいだ?」と聞かれたが、僕は知らなかった。
黒海沿いには小さいながらマーケットがあり、いろいろなものが売っていた。
マーケットを抜けると仮設住宅のような小屋がいくつも建っていた。 小屋は住居だったり、レストランだったり、チャイハーネ(喫茶店)だったりした。
その中の一軒にファイティングポーズをとったタコ八郎の等身大ポスターが貼ってある小屋があった。
びっくりした。
中を覗いてみるとそこはチャイハーネだった。
おそるおそる入ると、物静かな男性がいてチャイを出してくれた。
彼に「あの写真の人物を知っているか?」と聞いたら「知らない」と言っていた。
(今思うと、あの小屋は日本からトルコへの災害支援物資が回りまわったものだったのかもしれない)
彼は元船員で、少し英語を話し、よく本を読んでいた。
彼は仕草や佇まいが静かで、自分にとって居心地がよかった。
それからは毎日そこに通ってチャーイを飲んだ。
特に何か話すわけではなかったが、心が和んだ。
最後に郵便局で絵葉書を買って、この街を教えてくれた人に送り、リゼを離れてトラブゾンに向かった。
毎日雨がしとしと降っていた。
礼拝
旅先でお寺や教会、モスクなどに行くのが好きだ。
その中でも、ダマスカスのウマイヤドモスクはとても静かで厳かな雰囲気で居心地がよかった。
礼拝の時間になると追い出されるモスクも多いのだが、ウマイヤドモスクでは隅で座っていることができた。
家族連れも多く、子供も静かに祈っていた。
様々な寺院、モスク、教会を訪ねたがウマイヤドモスクはトップクラスの心地よさだった。
旅に出ると宗教や信仰、死について考えることが多い。
家族、親族や友人、学校の先生、医者など、周囲の人が皆同じ宗教という環境は子供にとってどんな感じなのだろうか?
「人は死んだらどうなるの?」とか「自分はなぜ生まれてきたの?」「自分ってなに?」
などの子供からの問いに対して周囲の大人が同じ答えをするというのは、すごく安心感があると思う。
特に子供にとって身近な人が亡くなった時など。
自分は6歳の頃に、当時遊んでいた近所の子が交通事故で亡くなったショックを長く抱えた。
(それを本当の意味で昇華できたのは最初の海外一人旅である20歳の頃のバラナシでだった)
しかし逆のこともあると知った。
チベットのシガツェで会ったドイツから来ていた若い白人女性は
「なんでチベットに来たの?」
という僕の問いに対して
「家族や周囲の人が皆キリスト教の中で私一人がどうしてもキリスト教の考えにずっと違和感を感じていた。でもずっとそれを誰にも言い出せなくて、ここに何か答えを探しにきた」
と言っていた。
それ以上の話は僕の英語力不足で聞けなかった(途中で「あなた本当に分かってる?」と言われてしまった)。
でも言葉は分からなくても、言いたいことは理解できた。
何か答えを探しに来たという点では自分も同じだったから。
周囲の人が皆同じ宗教でそれに基づいた死生観や道徳観というのはそのメンバーに安心感をもたらす半面、それに疑問を感じて突破していこうとする人には大変そうだと思った。
今の日本では周囲の人が皆同じ宗教という環境は少ないと思う。
でも、どちらにしても最終的には自分で確信するに足る何かを見いだすまで、偽りを見抜いていくしかない。
旅はそういった死生観や信仰を見つめなおすのにいいと思う。
エルサレム
ヨルダンの首都アンマンからイスラエルのエルサレムまでは車で半日で行ける。
早ければ4時間ほどだ。
アンマンからエルサレムへ行こうと乗り合いタクシーに乗ったその時期はラマダン(断食月)の終わり際だった。
運転手は空腹のためか気が立っていた。
イスラム圏ではラマダン中は事故が多いと聞いていたが、これでは無理もないと思った。
僕が乗った乗り合いタクシーは出発してから5分も経たないうちに、交通事故に遭った。
どちらが悪いかわからないが、タクシーの脇腹に他の車がぶつかってきた。
僕は強く頭を打った。
タクシーはドアがべっこり潰れてなかなか外に出れなかったが、壊れたドアをこじ開けて外に出た。
誰も助けてくれず警察や救急車を呼ぶわけでもなく、その場で解散。
とりあえず、一緒に乗っていた欧米人に記念写真を一枚撮ってもらった。
その後、ふらふらと歩いて宿に戻り、打った場所は大きなたんこぶになった。
それが治るまで大きな移動は控えることにした。
そして静養を兼ねてイスラエル側で行こうと思っていた死海に先に行くことにした。
バスで行ったヨルダン川の死海には観光客は誰もいなかった。
小屋のような場所で「泥マッサージ」と看板があったので受けてみたら親父にキンタマを触られた。。。
たんこぶがようやく治ってきたので、イスラエルへ移動することにした。
今度は用心して乗り合いタクシーではなくバスを使った。
時間はかかるがしょうがない。
バスは国境までで、荷物を持って降りて、イミグレと税関まで歩いた。
入国審査は聞いていた以上に緊迫感があった。
皆、荷物は全て調べられていたし、旅の目的も細かく聞かれていた。
自分は待っている間、リュックを床に置いてトイレに行った。
一応、チェーンと南京錠でリュックとベンチの足をつないでおいた。
でも、リュックをナイフで切られたら意味はない。
普段(旅行中)は荷物が盗まれる恐れがあるのでそんなことはしないのだが、ここなら見張りが厳しいから大丈夫だろうと思って荷物を置いていった。
トイレから戻ってきたら自分が座っていた辺りに周りに何人も人が集まって輪になっていた。
ひょっとして荷物が荒らされたのか?と思って、
「それ俺の荷物だけど」
と言いながら人の輪の中に入っていった。
そうしたら職員に凄い剣幕で、
「もう少しで爆弾処理班を呼ぶところだった。こんなことは2度とするな。」
と、こっぴどく怒られた。
そんなこんなで国境で2時間ほど時間を費やしたが、なんとか抜けることができた。
それでもまだマシな方だった。
後で聞いたら追い返された人もいたし、ノートにほんの少しアラビア語を書いていたのが見つかって6時間も拘束・追及された日本人もいた。
国境を越えたところでタクシーを拾って、エルサレムへ向かった。
途中、チェックポイントがいくつもあり、自動小銃の銃口をこちらに向けた兵士が見つめる中、長い柄のついた鏡で車の底部を調べていた。
爆弾チェックだった。
そんなこんなで、タクシーはエルサレム旧市街のすぐ外に着いた。
旧市街の中に車は入れない。
ずっと昔から続く細い石畳だ。
アンマンのクリフホテルにあった情報ノートで予め調べておいたホテルを探した。
アラブ人エリアの中にある、安くて自炊ができるホテルだ。
ホテルはすぐに見つけることができた。 宿には日本人が3人いた。
最初の予定では数日でエルサレムを抜けるつもりだった。
宿に着いたその夜、急に頭痛と吐き気とめまいがしてきた。
立っていられないほどだった。
滅多なことでは病院には行かないが、さすがに頭を強く打った後ということもあって不安になった。
父親は猛烈な頭痛を風邪と誤診されて脳内出血で亡くなっていたことも頭をよぎった。
同じ宿にいた日本人のフリーカメラマンに事情を話して、救急病院に連れて行ってもらうことになった。
そのカメラマンは僕より少し年下で、パレスチナの取材中イスラエル兵のゴム弾を受けて片目を失明していた。
タクシーで大きな総合病院に行き、ふらふらした足取りで、救急受付に行った。
気分が悪いので長椅子で横になっていた僕を受付の人達は見下した目で見ていた。
カメラマンが僕の症状を受付の人に伝えたが、取り合ってくれなかった。
僕も加わって詰め寄ると「クレジットカードを先に切れ」と言われた。
しょうがなく、カードを出した。
アジア人だからか、服装が汚かったからかは分からないが、自分が弱っているときに露骨に差別されるというのはなかなかしんどいことだった。
その後、散々待たされてやっと医者が来た。
その医者はアメリカに留学経験のあるとてもいい人だった。
そして「CTを撮ったが特に脳内部に異常はなく、頭を打った衝撃がまだ残っているのでしばらく安静にしているように」と言われた。
そんな訳で療養を兼ねて宿にしばらく居ると決めた。
その宿は自炊もできて、長期滞在の変な人が多く、退屈しなかった。
エルサレムは食材も豊富で新市街には日本の調味料も売っていた。
そしてそれ以上に旧市街自体が僕を強く惹きつけた。
エルサレム旧市街は本当に変わった街だった。
狭い中で人種・宗教で完全に分かれて生活していて、雰囲気ががらりと変わる。
イスラム、ユダヤ、キリストのそれぞれの祈りが折り重なっている。
実際に行く前は
「何で多くの人達があの街にこだわるんだろう」
と不思議に思っていたけど、行ってみると何か磁場のようなものがあり、ひきつけられる。
同じように宗教と深いつながりのある他の都市とも異なる独特な雰囲気だ。
安いホテルには住込みで働きながら何年も暮らしている欧米人が何人かいた。
その中にはビザを持っていない奴もいた。
彼はイスラエルに入国できない状態なのに母国から船で来て港に停泊中に海に飛び込んで泳いで岸について入国したと言っていた。
エルサレムの磁力に引き込まれたようだった。
毎日、旧市街の中を歩き回り、新市街で食材を買って自炊した。
万国民の教会に行ってミサをずっと見ていたり、知り合ったエルサレム在住の日本人とユダヤ人家庭にお邪魔して晩餐会に参加したりもした。
頭を打ったせいか、この街の持つ磁力のようなもののせいか、毎日ふわふわと過ごしていた。
宿の親父や宿に滞在していた人たちも本当に面白く、日本人の自分と同じ年ぐらいの男性が宿の親父に気に入られてバイトで管理を手伝いはじめたりした。
ある日、同じ宿に泊まっていた日本人女性がベツレヘムに行って来たと言った。
ベツレヘムはパレスチナ自治区だ。
そこでは、パレスチナの子供たちがイスラエル兵に向かって石を投げ、兵士は時々ゴム弾を撃ち子供を威嚇していたらしい。
もちろんゴム弾といっても、僕を病院に連れて行ってくれたカメラマンのように目に当たれば失明する。
その女性は、そのような現場の横を通り抜けてきたと言った。
他の旅行者が以前行った時もそうだったらしいとのことだった。
兵士に石を投げているのは子供だけで、兵士も威嚇でゴム弾を撃つぐらいで特に危ないということはないとのことだった。
身体も元気になってきたので、僕も翌日行ってみることにした。
ニュースや新聞でよく見るパレスチナ自治区。
以前から関心を持っていたので、自分の目で見てみたいと思った。
翌朝、エルサレム旧市街を出たところにあるバス停からバスに乗った。
1時間半ぐらいでバスはベツレヘムに着いた。
バスは街の大分手前で止まり、僕は他のパレスチナ人と一緒に歩いていった。
大きなコンクリートの壁が幾重にも迷路のようになっていて、横に大きなバリケードがあって、その先に検問所があった。
パレスチナ人はそこで長い列を作って身分証らしきものをイスラエル兵士に見せて街に入っていった。
こうしてパレスチナ人は毎日出入をチェックされている。
僕はパスポートを見せた。
幾つか質問を受けたが覚えていない。
兵士は高圧的で、すごくムカついた印象が残っている。
検問の先は道が続いていた。
検問をパスしたパレスチナ人達は乗り合いタクシーに乗っていなくなってしまった。
昨夜、聞いていた話ではこの辺りで兵士と子供が対峙していたはずだが、誰もおらず、所々黒い跡がある未舗装の道を一人で歩いた。
道はすごく薄ら寒い雰囲気だった。
段々、街に入っていったが、爆発で吹き飛ばされたらしい黒こげのビルや弾痕の残る建物がいっぱいあった。
中心部は市場などもありそれなりに人もいた。
キリストが生まれた場所という生誕教会に入り、しばらくぼーっとした。
平和な状態なら巡礼者や観光客で賑わうであろうこの教会も、この時は自分以外いなかった。
その後、街を歩いた。
旧市街の中のパレスチナ人の若者は旅行者に嫌がらせをする奴も結構いたが、ここでは皆親切だった。
パレスチナの若者にとっては、狭い中で常に監視され自由がきかず鬱屈した感じの旧市街よりも、危険は大きいだろうがベツレヘムの方がのびのびできるのだろう。
夕方になり、また検問を越えてバスに乗り、エルサレム旧市街の宿に帰った。
自炊して何人かで飯を食いながらTVを見ていたら、今日歩いたベツレヘムの映像が流れていた。
そのニュースは僕がベツレヘムに入る数時間前、兵士が投石してきた子供を実弾で撃ち殺したというニュースだった。
その数日後には、前日歩いていたエルサレム新市街(ユダヤ人居住地域)の市場で、爆弾が爆発し死傷者が出たというニュースが流れた。
この時日本のニュースは見ていないが、報道したとしても市場での爆弾の件だけで、パレスチナ人による「テロ」であり、「悪いこと」としか伝えられないだろう。
エルサレムはいろいろ感受性が高まる街だった。
海と馬
もし、もう一度青春を味わいたいと考えている人(特に女性)がいたら僕はダハブを心からオススメする。
当時、ダハブにいた34歳の女性は
「こんなにもてたのは生まれて初めて。ここは私の青春だ」
と言って結局2ヶ月いた。
(その女性とはトルコのトラブゾン近郊のスメラ修道院とエルサレムで会っていた。上で書いたベツレヘムに行った女性)
ダハブは紅海沿いにある、あまり開発されていない格安リゾート地だ。
海がきれいで、砂浜があって、シナイ山も近い。
適度な数の旅行者がスキューバダイビングや乗馬などを格安で楽しんでいた。
食事も宿も安い。僕が泊まっていた宿は一泊100円ぐらいだった。
旅行者同士仲良くなり、スキューバの勉強したり、馬に乗ったり、お茶を飲んだりご飯を食べに行ったり、バックギャモンをやったり、飲みに行っって踊ったりした。
魚を買ってみんなでご飯を作って食べたりもした。
夜は毎晩部屋に集まって色々話した。
恋も友情も生まれやすい環境だ。
僕が居たときは、僕以外の男はほとんどが学生休学組で、いい男が多かった。
女性は平均年齢は高いが数が少なかったので、ちやほやされ、もてていた。
現地の男にもてるのとは訳が違う。
日本では考えられない環境がそこにはあった。
(ちなみにおっさんが女子大生に囲まれちやほやされるという環境は残念ながら見つけられなかった)
そこで当時20歳の大学生がその34歳の女性に恋をした。
僕からしたら一時的な「気の迷い」だと思ったが、彼は真剣だった。
成就はしなかったが傍から見ていてもなかなか美しい物語で、青春映画のようだった。
(その女性はその後東へ東へと旅してパキスタンのフンザで現地の人と結婚した)
ダハブでの日々が楽しすぎて、なかなか離れることができなかった。
ひとつの場所に旅人が居続けることを「沈没する」というが、いつまでも沈没していたかった。
そんな中、スキューバダイビングでシャルムエルシェイク沖の沈没船を見に行くツアーに参加することにした。
結構深い所まで潜って沈没船を見に行くのだが、自分はそんなに深いところまで潜ったことがなかった。
アドバンスまで取ったもののかなり適当なレッスンだったので少し不安もあった。
しかしインストラクターの資格を持っていた休学中の大学生も一緒に行くことになり、心強かった。
ツアーの参加者で日本人は自分とその大学生の二人で他数名は欧米人。
ガイドはエジプト人。
自分はおそるおそるメンバーの真ん中らへんで潜り、沈没船を見学した。
そしてゆっくり浮上して海面に戻る途中、メンバーを先導していたガイドの身体がいきなりビクビクっと大きく痙攣して沈み始めた。
自分はどうすることもできなかった。
ガイドは自分の上前方にいたのにあっという間に自分達より深いところに沈んでいった。
が、最後尾にいたインストラクターの資格を持つ大学生が素早く再潜降してそのガイドを追った。
そして追い付き、ガイドの身体を抱えて再浮上した。
ガイドはその後病院に行ったが、後遺症もなく無事だった。
酸素中毒で、疲れが溜まっていたのと濃い酸素を使っていたのが理由のようだった。
その大学生は英雄となった。
自分も目の前で見ていて本当に凄いと思った。
そんなことがあって「そろそろダハブを出なければ」と思った。
死を意識して現実に戻された感じだった。
その後しばらくして、ダハブを出てカイロへ向かった。
ダハブでノンビリすごした数年後のこと。
妹がエジプトを含んだ中東を旅するというので、僕はダハブを目的地の一つとして薦めた。
そうしたらある日の早朝、家の電話が鳴った。
眠い中、電話に出たところ妹からだった。
妹からはダハブでのんびりしているというメールが少し前に来たばかりだった。
さては時差を考えず自慢かと思って聞いてみると、 妹はあわてた声で「テロがあったけど、私は無事だから」と言った。
驚いた。
妹の話によると大きな爆発音が聞こえて、近くのスーパーマーケットの近辺が吹き飛ばされていたらしい。
ダハブは小さな町で、そのスーパーマーケットは町の中心にあった。
毎日必ず通るところで、妹が泊っていたところからほんの数百メートルの距離だった。
妹はロンドンで働いていた時、通勤で使っていた地下鉄の駅でテロがあったので際どかったのはこれで2度目だった。
運が良いのか悪いのか。
兄弟揃ってダハブで死を意識することになった。
それ以来、僕はダハブをあまり人に薦めなくなった。
でもいいところだ。
色彩
エジプトから南米に飛ぶか南下しようか迷ったが、結局南下することにした。
スーダンビザを取りにカイロの大使館に行ったところ、大変な混雑で長い時間待った。
そして
「翌週火曜日に取りに来い」
と言われたので、
「もう少し早くできないか?」
と言ったら無言で書類を突き返されたので、あわてて「それでOKです」と言って引き下がった。
ビザ待ちの間、ルクソールやアスワン、アブシンベルをまわり、いったんカイロに戻って、ビザを受け取り再びアスワンへ行った。
久々に慌ただしく動いた。
それまで時間はたっぷりあった。
カイロのサファリホテルを起点にアレキサンドリアやシワオアシスにも行っていた。
計画的に動いていればビザのためにそんなに急がなくて済んだのに、なかなか動く気になれなかったのはカイロの街とサファリホテルが楽しかったからだ。
移動中、夕暮れ時にバスから外の景色を眺めていたら砂漠の地平線に何か大きな炎のようなものが見えた。
最初は火事か工場の煙突から火でも出ているのかと思って、しばらく見ていたら少しずつ上がってきて満月と分かった。
かなり驚いた。
アスワンから船で国境を越えた。
日本人は僕を含めて5人いた。
スーダン側の町ワディハルハはルクソールやアブシンベルなどが世界的な観光地として賑わっているのとは逆に何もなかった。
ピックアップトラックで港から少し離れた宿にチェックインして荷物を下ろし、駅にチケットを買いに行った。
宿から鉄道の駅までちょっと距離があった。
歩いていったのだが、人が歩くところは砂が少なく歩きやすいが、少しそれると砂が深い。
風景は幻想的だった。
すぐ横にナイル川があって、線路は砂に埋もれていて、駅は小さくて、ロバが歩いていて、夕陽がだんだん砂の向こうに沈んでいき、空がだいだい色から赤く染まっていった。
集団で歩く女性達が身にまとうカラフルな布と、砂の色と、夕陽。
その色彩がすごく印象に残っている。
チケットは明日でないと買えないと言われ、宿に戻ることにした。
帰りに店で魚と豆の晩飯を食べて、宿に戻った。
しばらく休憩して、また外に出た。
砂漠の夜は冷える。
あちこちで火を炊いていて煙が上っていた。
火を炊いているうちの一軒の店(野外)で、水タバコを吸いながらチャーイを飲んだ。
月がくっきり出て、星がきれいだった。
流れ星も見えた。
「来てよかった」と思った。
南京虫
エチオピアの首都アジスアベバではパークホテルに泊まった。
部屋が空いてなく3人で一部屋だった。
ラリベラから一緒に来た日本人のAさん(年上)とB君(年下)。
しかしすぐに3人とも南京虫にやられた。
自分はあまりに痒過ぎてレインコートを上下着て寝るようになった。
B君はダハブから大体一緒でAさんはラリベラで会ったのだが、サファリホテルででよく話した人がAさんのことを何度か懐かしそうに楽しそうに言っていたので、どんな人だろうと思っていた。
でも最初は少しAさんと心の距離があった。
Aさんは旅の最初のイギリスの語学留学中、イタリア人に少し舐められていたらしく、「俺は空手をやっているからお前を倒すことができる」 と言って立ち会ってタックルで倒したらそこから仲良くなったと語っていた。
(実際Aさんは空手はやっていなかったらしいのだがラクロスで日本一になっていたので体力は凄かった)
その後もトルコで親しくなった現地人にシャツを盗まれて殴り合いとかしていたらしい。
自分は旅に出る前にブラジリアン柔術を習い始めていた。
その話をパークホテルでした時、自分は見た目弱そうなのでみなさん意外そうな懐疑的なリアクションだった。
Aさんの語学留学の話を聞いた後だったこともあって、Aさんと「じゃあ組んでみましょうか」となった。
打撃無しでギブアップするまでとか簡単にルールを設定して、フロントチョークを極めてタップを取った。
そこから距離が縮まったように思う。
その後、マウントの取り方(精神的なマウントではなくブラジリアン柔術の)とかを少し練習した。
アジスでは毎晩ビリヤードをやりに行っていた。
Aさん、B君に加えて南アフリカから上がってきた元ヤ〇ザのC君(同じ年)とドイツ人の5人がいつものメンバーだった。
ある日、Aさんが一人で残って少し飲んで帰ることになった。
そうしたら夜中に慌てて走って帰ってきて、 「もう俺この街にいられないよ」 と言う。
どうしたんですか?と聞いたら、帰り道、不良エチオピア人にからかわれたのでマウントを取ってボコボコにしたとのこと。
「教えてもらったのができたよ」と慌てているのに少し誇らしげ。
彼らが集団で襲ってくるかもということになり、自分もB君も武器を持った。
そうしたら実際に何人かホテルにきたのだが、ガードマンに撃退されてホテルの中に入って来なかった。
次の日はさすがに警戒してみんなで行動したが、そのうち大丈夫そうとなってまたそれまでと同じように毎晩ビリヤードに通った。
ホテルで毎朝コーヒーやカプチーノを飲み、ブリティッシュカウンセルでネットをしたり、日本大使館で借りた「坂の上の雲」を読んだり、イタリアレストランに行ってパスタやピザを食べたり、縄跳びや腕立て伏せを競ったり、将来どうしたいかなどいろいろ話し合ったりした。
痒かったが、最高に楽しい日々だった。
大木
エチオピアとケニアの国境モヤレ。
国境の街モヤレはエチオピア側も荒んだ雰囲気だったが、ケニア側はそれ以上の荒み具合だった。
未舗装の道を歩いている間にヒシヒシと伝わってくる。
両替の誘いも多かったが、全て無視してホテルまで歩いた。
そしてケニア側のホテルに泊まった。
同じホテルに泊まっていた欧米人の女性旅行者と会話したら、
「エチオピア側に行きたいのだけど、途中でケニア人の男が何人も付きまとってきて怖くてイミグレまで行けない」
と嘆いていた。
タクシーはないので歩いて行くしかないのだが、つきまとう男達にかなり危険を感じたらしい。
「じゃあ自分が付いていくよ」 と言って、翌朝その女性と一緒にケニア側のイミグレまで歩いて行った。
自分は一応護身用に木の棒を持って行った。
男達にジロジロ見られたが何とか辿り着いて、自分はまた歩いて引き返した。
ホテルに戻ったら日本人の女性旅行者と男性旅行者がいた。
二人は旅の途中で一緒になりエチオピア側に行こうとしていた。
女性は西アフリカに行ってドラムを学びたいとのことだった。
その二人に先程イミグレまでついていった欧米人女性旅行者の話をした。
女性が一人で旅するのはアフリカだとなかなか難しいというような話になって、その日本人女性もケニアに引き返すことになった。
ドラムを聴きたいし習いたいのであって、一人旅がしたいわけではないとのことだった。
そのためケニアから西アフリカまで飛行機で飛ぶことを考えていたようだった。
翌日、日本人女性と一緒に家畜トラックに乗った(定番の家畜ゲージの上でなく助手席)。
途中の村で一泊することになった。
大きな木が沢山生えている村で落ち着いた。
レストランで夕食を食べようとしたら西洋人男性と一緒になり3人で話した。
その西洋人男性は何というか魔術的だった。
黒目が異様に小さく引き込まれるような感じで、話し方も独特だった。
薬物をやっている感じではなかったが、何かこちらの足元が揺らぐような感覚に陥いらせる人だった。
西洋人旅行者と別れた後、日本人女性にそういった彼の印象を話した。
そうしたらその女性旅行者も似たような印象を感じたとのことだった。
そして堰を切ったようにお互い身の上話をした。
その女性は身内に不幸(自殺)があって、その心の傷を癒すためによく近くの山で大木の洞に入っていたということだった。
自分も大きな木にもたれて静かに過ごすのが好きだったのでとても共感できた。
大木には人を落ち着かせ、心の傷を癒す何かがあると思う。
それが静的な癒しなら、動的な癒しがドラム(リズム)なのだろう。
その女性とはナイロビで別れた。
数年後、その女性からナイロビ市長の息子と結婚したとメールが来た。
予言
一年の旅から帰ってきて、再び就職することになった。
働き出す前に行きたいところに行っておこうと思い、アンコールワットを見に行くことにした。
当時妹は東京での仕事をやめてロンドンで働き出す準備のため地元に戻ってきていた。
その妹もアンコールワットに行きたいとのことだったので一緒に行くことにした。
その頃、妹は海外旅行といっても友達と観光地へ行く程度だったが、今では僕以上に旅をしている。
タイから陸路でカンボジアに入り、シェムリアップに行った。
バイクタクシーに乗ってアンコールワットをはじめいろいろな遺跡群をまわった。
妹との旅はお互い気をつかわなくていいので楽だった。
ある夜、飯を食おうかと2人でシェムリアップの街を歩いていたら「彼」がいた。
西チベットで会って、いろいろ話した韓国人だった。
僕より少し年上で、長身でカメラマン、日本人の彼女がいると言っていた。
不思議な雰囲気の人だった。
何となく気があったので、西チベットで彼と別れる時に
「メールアドレスの交換しようか?」
と言ったら、 彼は
「お前とはまたどこかで会いそうな気がするからまだいい」
と言った。
その後彼とネパールで会った。
が、ここまでは旅のコースが同じなのでよくあることだ。
しかし、それから1年以上経ってカンボジアで再会したのにはびっくりした。
彼はアンコールワット近くの道に面した席に座って、甘いものを食べていた。
僕は彼の顔を見て、「あっ」と思い、近づいて
「俺のこと覚えてるか?」
と聞いたら、
彼は少しも驚かずに
「久しぶり。また会うと思っていたよ。」
と言った。
彼がびっくりしなかったことにびっくりした。
その後彼の部屋に行き、いろいろ話をした。
彼は相変わらず旅をして写真を撮っていた。
「自分は再びサラリーマンをやることにしたよ」
と言ったら、
「また、お前も我慢できなくなって旅に出るよ」
と言った。
今度はメールアドレスの交換をして、彼と別れた。
彼の予言はまた当たった。
その数年後、今度は鍼の旅に出ることになったから。
なごり雪
旅から20数年。こないだ旅であった人にお線香をあげに行ってきた。
カイロのサファリホテルで会った人。
同じ部屋で年がわりと近く(向こうが上)、地元が同じ愛知県、そして何か波長が合う部分があった。
そのためそんなに長い期間一緒にいたわけではないが、いろいろ話をした。
旅の最中ということとその人は飾らない人柄だったので、自分も普段ならあまり話さないようなことも話したように思う。
そして帰国してから一度自宅にお邪魔して飲み会に参加したが、それ以降つながりがなくなっていた。
最近たまたま東京に住む、これまた旅で会った人に連絡したら、最近その人が亡くなられて東京で旅仲間が集まり追悼飲み会をしたと聞いた。
そして旅仲間の何人かがご自宅にお邪魔してお線香をあげにいくとのことだったので、代表者の方の連絡先を聞いて自分も加えてもらうことにした。
当日は関東から関西まで総勢8人(自分入れて9人)。
訪れた家は新しくきれいだった。
ご家族の方といろいろな話をすることができた。
ご家族も気さくな飾らない人達だった。
その人のお母さまが「話すことができて、もやもやが晴れた感じ」とおっしゃって下さり、来てよかったと思った。
その人は飾らない人柄というだけでなく気遣いの人でもあったので、そのように引き合わせてくれたのだろうなと思った。
そしてその人は決めたらとことんやる意地の人でもあった。
離婚されていたこともあって娘さんの高校時代は毎日かわいらしいキャラ弁を作っていた、というエピソードをお聞きして驚いたが納得した。
どんなに疲れていても、酔っていても(平日休みのため)、決して欠かすことはなかったとのこと。
娘さんからは愛されて育った雰囲気を感じた。
旅をしていた頃、サファリホテルを発つ人がいる時は、残る人達が「なごり雪」を歌って送り出すという慣習があった。
自分もサファリに滞在していた時に何人か送り出していて、その慣習を気に入っていた。
そしていよいよ自分もサファリを出ることを決めた。
サファリで会った何人かとルクソールに行き、その後アスワン、アブシンベルを巡り、スーダンへ抜ける予定だった。
自分は手違いでスーダンビザが取れていなかったので途中までそのメンバーと一緒に行き、そこから一人でカイロに戻りビザを受け取ってUターンすることにした。
最初、夜行電車に乗るために数人でサファリを出る時は、残る人達全員に「なごり雪」を歌いながら華やかに送り出してもらった。
そして仲間と南エジプトをまわって一人でカイロ(サファリ)に戻り、無事にスーダンビザを受け取った。
次の日の明け方、ひっそり起きてサファリを出ようとした。
明け方だし一人だし、目立つキャラでもないし、少し寂しいけど見送りがないのは当然だと思っていた。
そうしたらその人が眠い目をこすりながら起きてきて、なごり雪を歌って送り出してくれた。
その時は涙が出るほど嬉しかった。
こないだその人の家を出る時、なごり雪を歌いながら階段を下りた。
そして強くその時のことを思い出した。
あの時自分がどれだけ嬉しかったか、直接伝えたことはなかったけれど、本当にありがとうございました。
なごり雪 - イルカ(Iruka)