かっぱコラム


「本の話」



旅の話 鍼の話     
“自分のらくだをもっとよく知るためにはどうすればいいか学び、らくだとの友情をきずくやいなや、彼は本をなげすててしまった。
少年はそれまで、本を開けるたびに何か大切なことを学べるという迷信を持っていたが、ここでは本は不必要な荷物だと決めたのだった。”

パウロ・コエーリョ著 「アルケミスト」より

目次






身体が「ノー」と言うとき‐抑圧された感情の代価 ガボール・マテ著




最初に読んだのは鍼灸学校に入る前。
感情を抑圧し続けると、身体が病気となることで抑圧された感情を表現するという内容。
いかに「ストレスと病気」、「精神と身体」が密接に関わっているか書いてあるのだが、絶望的な話が多い。
そして、どうしたらいいかの部分が少ない。
今となっては落ち着いて読めるようになったのだが、最初は「じゃあどうしたらいいんだよ!」と思ってた。
多分これまで自分が読んできたストレスと疾患に関する本の中で最も鋭い。

著者はカナダの医師。
臨床で経験してきたストレスと疾患との関係について詳細に書いてある。
この本に出てくる疾患は様々だ。深刻な病気も多い。
多発性硬化症、過敏性大腸症候群、筋萎縮性側索硬化症=ALS、クローン病、アルツハイマー病、慢性関節リウマチ、強皮症、強直性脊椎炎、全身性エリテマトーデス=SLE、喘息、さまざまなガン、無月経症、間質性膀胱炎、線維筋痛症、うつ病、不安症、不眠症、糖尿病、多発性硬化症、拒食症、過食症、など。
そしてストレスの方はちょっと説明できないほどキツイものが多い。
ストレスの種類はそれぞれだが、子供の頃に境界を侵害されて自分の境界がしっかり確立できないまま大人になり、常にストレスを抱え込んだ状態で病気になっていくケースが最も多いとのこと。

どうしたらそういった問題を改善していけるのかずっと考えていた。
そして縁あって現在は体表(のツボ)に鍼を接触させる治療を行っている。
境界への不快な刺激(ネグレクトも含めた)と反応による習慣がストレスを生み出し続けて病気になっていくのとは逆に、境界への快刺激で積み重なった負の習慣を解いている。
それは皮膚から境界(自分)を識別・再編していくサポートとなって、感じているストレスも変化していく。
以前は気づかなかったが、読み返すとこの本の中にもいくつか皮膚の重要性について書いてあった。

また東洋医学の「未病を治す」という観点で言えば、そこまで重大な疾患に至るまでに首や肩のこり、頭痛、慢性的な疲労、気分の悪さなど、身体からのメッセージは出ていたと思う。
それらは病院に行っても「病気でない」と診断されるか、精神安定剤や痛み止めを出されるか、湿布を出されるか、もしくはリハビリ室で電気をかけられたり、首や腰を牽引されたり、流れ作業的にマッサージをされるぐらいだろう。
この本を読むと深刻なストレスを抱えた人に対して、そういったことが如何に馬鹿らしいかよく理解できる。

p135“要するに、精神・神経・免疫・内分泌系の各構成要素は神経線維で結ばれているだけでなく、常に生化学的な会話をかわしているのである。お互いに送ったり受け取ったりしている無数の化学物質によって、システム内のそれぞれの要素は分子レベルで共通の言葉をやりとりし、同じ信号に対してそれぞれのやり方で反応しているのである。言うなればこのシステムは、同時にあらゆる方向から入ってきてはあらゆる方向に出ていく共通語のメッセージがランプを点滅させている巨大な分電盤のようなものだ。それはつまり、短期的あるいは長期的な刺激がこのシステムのある部分に何らかの影響を与えた場合、その影響は他の部分にも及ぶ可能性があるということでもある。”

p307“ある動物実験の驚くべき結果を見れば十分だろう。バリアム(Valium)やアティバン(Ativan)といった精神安定剤は、ベンゾジアゼピン類の薬品である。向精神性のすべての医療品と同様、バリアムやアティバンが作用するのも、それらによく似た構造を持った精神安定物質のレセプターが脳のある部位に存在するためである。大脳側頭葉にあるアーモンド型の扁桃体は、恐怖および不安の反応を調整する主要な器官のひとつである。その表面には脳でできるベンゾジアゼピン類のレセプターがあり、活性化すると、恐怖によって引き起こされた反応を鎮める。十分な愛情を注がれずに育った大人のラットと比べると、母親が十分になめたり毛づくろいをしたりして育てたラットの扁桃体には、はるかに多くのベンゾジアビピン類レセプターが存在することがわかった。子供のころに母親が十分な世話をすることが、大人になってから不安を調整する脳の生理機能に影響を与えたのである。ここで見られた差異は、遺伝的要素では説明できなかった。
人間の心理的発達は、動物と比べればはるかに複雑ではあるが、子育ての仕方とストレスとが世代を超えて伝えられることは共通する原則である。子供のストレス反応の発達も同じことだ。”

p399“結局のところ、病気そのものも境界の問題に行き着くのかもしれない。病気になりやすいタイプを予測する研究を見ると、いちばんリスクが高いのは、自律性をもった自己意識がまだ確立できていない時期に境界を侵害された人なのである。”

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からだのスピリチュアリティ  アレクサンダー・ローエン著




A.ローエンは精神科医でライヒの弟子として有名。
バイオエナジェティックス(bioenergetics)の創始者。
スマートな本で、分かりやすく心身相関について書いてある。
特に筋緊張と情動の関係についての考察は見事で怒りと憤激の違いも明瞭。
呼吸や皮膚についての記述も多く、話は幅広く展開されていくが身体性とつながりを失わず、「身体こそ大切」としている。
また東洋思想とそれに基づく東洋医学、特に「気」についても書いている。

p33“経験はすべて体に影響し、心の中に刻み込まれる。その経験が快いものならば、健康、活力、体の優美さ(グレイスフルネス)が高められる。ところが辛い経験についてはその反対のことが言える。外傷体験に対して適切な反応がとれる場合には影響は一時的なものかもしれない。体には自然治癒力があるからだ。ところが反応がブロックされると、外傷体験は慢性的筋緊張の形で体につめ跡を残すことになる。泣いては駄目と教え込まれた子供の場合を考えてみよう。泣きたい衝動が体に留る結果、何らかの手を打ってその表現がブロックされねばならなくなる。衝動を制御するために、泣くことに関するすべての筋肉が収縮し、衝動が消え去るまで、収縮し続けなければならない。しかしこの衝動は消え去りはしない。代わりに体の奥深くに引きこもり、そこで無意識の中で生き続ける。何年も後に、セラピーや強烈な人生体験をした時に再び動き始めることがあるが、それまでは関連のある筋肉群-この場合は口、顎、のどの筋肉-は慢性的な緊張状態にある。”

p107“生き残るためには、生命体は環境に対して敏感でなければならない。この感受性は生命体を取り囲む膜に基づいており、この膜は食物や養分を摂取し、老廃物を排出するという風に選択的透過性を持っている。選択性、あるいは異なる刺激を弁別する能力は認識や意識の基礎である。つまり、正確に言うならば、意識とは体表の現象であると言ってよいと思う。”
p111“衝動が意識的に抑制されると、その結果急性の筋肉収縮が起こる。興奮の波はどんどん筋肉に到達するため、疾走したくてうずうずしている競走馬を騎手が抑制している時のように筋肉はぷるぷると震える。ところがこの緊張が慢性化すると、筋肉は硬直化し、衝動の抑制も無意識的になってします。筋肉が固定され緊張していれば、自然発生的な動きは不可能になり、人はもはや、怒りやその他のいかなる感情も、さらには自分が感情を抑制しているという事実にさえも気づかなくなる。その部分の感受性が死滅してしまい、緊張を感じないからである。何年も経ち筋肉が弱くなると、痛みが発生してくるが、その時にはもう痛みと、緊張、感情の抑圧の間にある関連に気づくこともできない。”

p114“愛を感じると優しく手を差しのべるのとまったく同様に、我々は怒りに駆られると激しく殴りかかる。しかし、怒りにおいては愛に対する障害物を取り除こうとするのに対し、憤激においては怒りの対象を敵、つまり自分を破壊するものとみなす。我々は『殺したいほどの憤激』という感情を口にする。しばしこの種の憤激は罪のない人、特に子供に向けられる。反抗的な子供ほど親を怒らせるものはない。親はまるで、子供が親の意志に反したり権力を否定することで自分が致命傷を負わせられたかのように反応する。この種の憤激は親自身が子供時代に自分の親から受けた傷に由来する。-権威をふりかざし、愛のない親に歯向かったがために、こっぴどく罰せられてスピリットをくじかれた体験である。この残酷な仕打ちを受けた際の怒りは抑圧され、親のパーソナリティの中に封印され、そこで何年もくすぶり続けているが、ある日突然、罪のない人に向けて爆発する。この情激のメッセージは非常に明瞭だ。『私が打ちひしがれてしまっているというのに、どうして子供のお前は自由なスピリットが持てるというのか』である。子供に対する親のねたみが憤激を生み出すと言える。”

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人はなぜ治るのか  アンドルー・ワイル著


心身相関といえばこの人が有名。
ベストセラーを何冊も書いているアメリカの医師。
個別の治療法もいろいろ広く浅く書かれているが、病気とは何か、治癒とは何か、といった基本的な定義にしっかり取り組んでいるところが気に入っている。
そして著者は現代医学について、科学から時代遅れになっていると言う。
現代医学は人を機械的に見ていることを「科学的」と考えているが、その“科学”は意識の問題を除外しているため、もはや現代科学的ではないのだと指摘している。

ここら辺は非常に興味深い。
量子の世界で「観察とは何か」ということは、観察が観察されるものに及ぼす影響が不明なので未だ定義できない問題だと聞く。
また野口整体の創始者である野口晴哉氏は、「子供は親の注意(批判ではなく意識の集中)を向けてもらことが何より重要」と述べている。
親の注意を引くために病気になったり、怪我をしたりするとも言っている。
それは自分も実感している。
こちらの注意が散漫な時に、子供は普段やらないことをやったりする。
そしてネグレクトは虐待であり、子供の心身に深刻な影響を及ぼすことはよく知られている。
親の注意、意識の集中が子供に及ぼす影響は計り知れない。
そのような注意、意識の集中、観察、などによって影響が出るのは、素粒子でも、子供でも、大人でも同じなのかも知れない。

現代医学はそのような人と人との間の“何か”が及ぼす影響をほとんど考慮していないシステムになっている。
医師はデータや画面だけを見て患者自体をあまり見ず、触れない。
それでは観察や注意は生じない。
薬で言えば、二重盲検法でプラセボ効果や観察者バイアスの影響を防げばそれで「科学的=正しい」とされてしまう。
ワイルはそのような現代医学に対して、「意識の問題を除外することが科学的というのはもはや科学的ではない」と鋭く指摘する。
医者が一人ひとりの患者をしっかり診ることは手間がかかるため、経済効率性とは相反するので患者を5分も診ないで薬を出すことも多い。
そういった経済的なシステムがどのような弊害を生じさせるかを覆い隠すかのように、メディアを通じて恐怖や欲望を煽り、医者へ行けば解決するかのように宣伝されている。
意識を排除しようとしたはずの現代医学(特に製薬)が、今では逆にメディアを通じて意識にはたらきかけているのではないだろうか。


p354“正統派医学は、物理学の古いモデルが最盛期にあった19世紀末に、科学技術と手を結ぶことになった。医学者は、科学の殿堂の新参者として、迷信的な思想や慣習の片鱗をみせてボロを出さないように、細心の注意を払ったに違いない。彼らはまた、まだ記憶に新しい過去の傷跡も隠さなければならなかった。19世紀中葉に勇名を轟かせた「英雄医学の時代」を思い起こしていただきたい。その時代の瀉血法や洗浄法は科学実験による基盤もなく、大衆を敵にまわしてしまい、政治力を奪われるという結果を招いた。ヨーロッパやアメリカの医師は、1860年まで瀉血法を行っていた。その年になって急に方向を転じ、背後に潜む病変は改善されないが、患者の気分を変えるようなアヘン、アルコール(のちにはコカイン)といった薬物を大量に使いはじめた。その結果、大量の中毒者を生み出し、再び大衆の怒りを買って、代替治療法に患者を奪われるはめになった。

“物理学・化学・生物学の課程が、新しい医学教育の基礎になった。対照群を置いた観察や実験という科学的な方法が、健康や病気という現象を分析し、治療を評価する手段になった。医学のテクノロジー化からはX線写真や合成薬物が生まれ、病気の診断や人体の構造と機能を変えようとする医師の力を飛躍的に高めた。科学者となった医師は、ライバルを堂々と非難できるようになった。”

p355“科学的になることで、組織としての医学は、かつてない成功への道を歩むことになった。それは、50年もたたないうちに、西欧のみならず、全世界的な主流医学として君臨することになったのである。皮肉なことに、医師が物理学者の行動や方法を模倣しはじめた時代は、折しも物理学が重大な理論革命劇の幕を切って落とし、意識の問題を中心にすえた新しい現実モデルが生まれかかっていた時代だった。医師の団体が科学教育課程のガイドラインを定め、ライバル関係にあった旧弊な治療法を閉め出そうが、また、医学の大躍進が、盲目的に科学を信仰する大衆に、20世紀中にはテクノロジーが病気に勝利すると確信させようが、医師自身が抱いている現実モデルそのものが、すでに時代遅れのものだったのである。物理学と医学は一見して縁遠いもののように思われがちだが、物質の窮極の姿を研究する以上、物理学は他のすべての科学に影響せざるをえない。日常的経験の世界では、過去の唯物的機械論が依然として正しく感じられ、ほとんど矛盾は生じないが、素粒子の研究を説明する段になると意識の問題が含まれてしまい、岩石であれ、星であれ、植物であれ、そして人体の場合はとくにいえることだが、素粒子によってできている一切の系からは、意識を分離独立させることができなくなる。物理学者の頭の中で起こった劇的な革命が自動的に他の分野の科学者の考え方を変えるわけではない。多くの科学者はいまだに心と物質とは何のつながりもないかのごとくふるまい、いまだに心と物質のつながりを示唆するようなものには警戒的になっている。20世紀も幕切れが近いというのに、古い現実モデルの転覆がまだ医師の職業意識に浸透していないことは明白だ。”

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「健康によい」とはどういうことか ナラエビ医学講座  斎藤清二著


著者は医師。富山大学保健管理センター長・教授。
すごくシンプルに分かりやすく、心身相関に関することが書いてある。
EBMや統計について考えていた時、この本を読んですっきりした。

最近はインターネットが発達したおかげで論文などを読むことが容易にできる。
あらかじめこの本を読んでおくと、どのように論文を捉えるかの指針となると思う。
そして医師の言うことをより理解できるようになり、自分がどうしたらよいか選択しやすくなると思う。

p19“ひとつ言えることは、簡単に『絶対これが正しい」というような人の言葉は、そのまま信用できない、ということだろうね。”

p22“C君が問題にしているのは『一般化可能性』というやつだね。結局、なにを目的に研究しているかによるということになるね。医療とは『目の前の患者さん個人に最大の幸福をもたらすための援助行為である』と定義すれば、100人のうち70人にあてはまるが、30人にあてはまらないような根拠よりも、確実にDさんに当てはまる事実の方が、根拠の質が高いということになる。さっきのような方法は『N-of-1試験』と呼ばれていて、『究極のエビデンス』と呼ぶ人もいるんだよ。”

p36“予後だの、余命だのというのは、あくまでもたくさんの患者さんについての研究の結果の統計的な情報に過ぎないんだ。『中央値』とか『平均値』というのは、抽象的な概念に過ぎない。ひとりひとりの個人こそが『実在』なんだよ。”

p160“たとえエビデンスが証明された治療法だとしても、けっしてそれは『必ずその患者さんに有効だ』ということを意味しているわけではないわ。せいぜい、確立論的に『他の治療法より有効である可能性が高い』というだけよ。・・・時にはこの『有効である可能性』というのは、数字にするととても小さいものであることも多い。”

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臨済録 入谷義高訳注

学生時代に座禅会でお世話になった和尚さんも臨済宗だった(自分は臨済宗ではないが)。
自分が知らずに違う手の組み方をしていたのに、こちらが気づくまで一年以上も指摘しなかった度量の広い人。気骨もあって大好きだった。
代替医療に限らず、専門家の語る因果関係の物語に飛びつき、大がかりな(身体負担の大きい)治療を行い、高額なお金が請求されることは多い。
そして保険で自己負担は安価でも治癒とは逆向きの「治療」を長く続けている場合も多い。

p108“あるいは修行者が、首枷をつけ鎖を引きずって和尚の前に現れる。眼のない和尚はこれに対して、さらに一組の首枷や鎖を捲きつけてやる。なにも分からぬ修行者は、またそれを有難がって、双方とも相手の見分けができぬ。こういうのを『客が客を看る』という。”


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原初生命体としての人間 野口三千三著


著者は野口体操の創始者で東京芸術大学教授、のち名誉教授。
この本は元々1972年に別の出版社から出されたようだが、内容は古さを感じさせない。
それは「自分自身という存在にとってからだとは何か」を感覚的に探求しているからだと思う。

公的な役職(東京芸術大学教授)に就きながらも体操界ではアウトサイダーだったとのこと。
この人が日本の小中学校の体育のカリキュラムに関わっていたら今とは違うものになっていただろうし、今頃武道(剣道・柔道)やダンス必修化などやっていなかったと思う。
武道よりもダンスよりも、道徳よりも、自分の身体を感じることを学ぶことの方が重要だ。
そして意識の話はとても面白い。

p31“人間のすべての働き(からだの動きにかぎらず、精神的な働きをふくめて)の良否は、肩や頸の柔軟性によって決定される。”

p36“30億年も昔のことである。いろいろな有機物が溶け込んでいる液体的なものが、新しくある複雑な条件を得て、ひとつのまとまりをもつ液滴となった。この液滴は、最初の仕事として自分自身の界面としての膜を創り出したのである。界面をつくって生きもののような状態となった液滴、このような液滴を、オパーリンは「コアセルベート」と呼んだ(このコアセルベートと現在の自分が重なり合い溶け合った状態を、私は「原初生命体」と呼ぶのである)。この状態での中身の液体は、すでに「体液」であり、界面の「膜」は体液の創り出した最初の道具である。体液が新しく必要とするものを膜が選んで外側の環境から内側にとり入れ、内側で不要となったものを膜が選んで外側に捨てる。膜の働きは、広い意味での情報(情報・物質・エネルギー。以下、「広義の情報」と記す)の受容・伝送・処理・反応のすべてにわたっているのである。この液滴のまとまりを破壊しようとする広義の情報が現れて近づくと、それを感じとって、まとまりの全体に伝え、それから遠ざかろうとして全体の形を変え、流れの動きによって離れるのである。新しく必要とする広義の情報が現れると、それを感じとって、まとまりの全体に伝え、それに近づこうとして全体の形を変え、流れの動きによって近づき、それを自分の中に取り込んで一体となる。”

p37“このように、今ある人間の狭義の情報の受容・伝送・処理・反応(脳・神経系、感覚器系、ホルモン系・・・)のすべてを含み、物質の受容・伝送・処理・反応(消化器系・呼吸器系・循環器系・・・)も、エネルギーの受容・伝送・処理・反応(運動器系・体温調節器系・・・)もふくむ。生きものとしてのすべての働きを、体液とその界面の膜とで、きわめて驚くべき融通性・可変性・多元性・統合性の能力によって、適切に処理しているのである。コアセルベートは、このようなことを繰り返して長い長い時間が経った。界面の膜が受け持つ情報の受容・伝送・処理・反応の能力を、さらに飛躍的に高性能化させる必要から、体液は新しく界面の膜の感覚受容器(目・耳・鼻・舌・皮膚)や伝送系としての神経、処理系としての脳・・・というように新しい道具・機械を創り出していったのである。”

p50“私は意識的自己というのは、生きものにとってむしろ特殊な存在状態であって、非意識的自己とは、その特殊な意識的自己という状態を除いたきわめて広いすべてを含んだもので、特別に下とか前とか深い所とかに限定されるものではなく、自分という存在状態にとって、いつでもどこでも遍満して在るというべきものだと考えている。意識はこの非意識的自己が必要とするとき、いつでもみずからの力により、みずからの中に創り出し、必要がなくなった時には再び非意識的自己の総体の中に吸収されるもので、意識は非意識的自己のひとつの存在様式と考えるべきだと思う。実際には意識という働きの必要性が絶えず起こっては消え、消えては起こるので、一定の意識というものが存在しているように、意識の状態にある非意識が意識するだけのことであろう。このように、意識という在り方が働いている時でも、それ以上に圧倒的に多くの働きを、非意識のままで働いているのである。”

p51“『意識を捨ててやらねば駄目だ』『無意識でなければそれはできない』というようなことを言う時がある。このような時、意識というものがまるで自分の敵であるかのように聞こえる。しかし、これは意識としての在り方がそのことをするに当たって不適当であったにすぎない。意識というものは、非意識的自己の総体が創り出した道具・機械であると同時に、非意識的自己そのものの働きとしてのひとつの在り方である、と一元的に考えるならば、意識を捨てるとか、無意識でなければとか、ことさらに意識するのは馬鹿げたことである。こころの主体である非意識的自己の総体に任せることによって、最適最高の意識の在り方が、自然に生まれると考えるのである。”

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生存する脳 Descartes'Error アントニオ・R・ダマシオ著


著者は神経学者であり医師。
世界中でベストセラーとなった本。
最初読んだのはかなり前だが、何度も読み直した。
皮膚についてもいくつか記述があり興味深かった。

p250“感情が身体の知覚的イメージを与えてくれるとき、われわれは『生』の身体に気を配る。また『あたかも』感情が、ある状況と関連する身体状態の想起されたイメージを与えてくれるとき、われわれは『再放送の』身体に気を配る。”

p318“たぶんこれは真実だろう 皮膚伝導反応なしに、ある情動に特有な自覚的な身体状態をもつことはない。”

p345“皮膚と聞いてわれわれが最初に思い浮かべるものは、触覚によって外界の物体の形、面の状態、温度などをわれわれが構築するのを手助けする、外側に面を向けた一枚の大きな感覚のシートである。しかし皮膚はとてもそんなものではない。まず皮膚は恒常性(ホメオスタシス)調節の中心的存在であって、脳からの自律神経信号と多くの源からの化学信号によってコントロールされている。”

p346“皮膚は実質的に身体最大の内臓である”

p349“じつを言えば、われわれは通常自分で思っているよりも、はるかに身体全体の状態を意識している。視覚、聴覚、触覚が進化したことで、それにともなって全知覚のうちそれらの要素に通常向けられる注意が増したのである。その結果、身体の知覚はしばしば、まさに身体が最善の仕事をしていたところ そしてしているところ すなわち「背景」に置き去りにされた。”

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無意識の脳自己意識の脳 The Feeling of What Happens アントニオ・R・ダマシオ著


ダマシオの3部作の2作目。
自己意識の問題を中心に扱っている。
「私」とは何か、について脳科学から迫っており、著者は自己を原自己、中核自己、自伝的自己と分類している。
この本もとても興味深かった。自己意識の問題は治癒ととても深く関わっていると思うし、著者の定義する自伝的自己は皮膚と強く関連していると思う。
皮膚に鍼をすることは自己意識の変化(変容)につながる。

p238“原自己は基準であって知識の倉庫ではないし、知的な知覚体でもない。原自己は認識のプロセスに参加しながら、寛大な脳が、「だれがするのか」、「だれが認識するのか」という問われざる問題に答えていま起きていることを説明するのを、じっと待った。そして最初にその答えが届いたとき、自己感が生まれた。”

p337“要するに、情動的状態は身体の化学特性の無数の変化、内臓状態の変化、そして顔面、咽喉、胴、四肢のさまざまな横紋筋の収縮の程度の変化によってきまる。”

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中国古典文学大系4 列子  福永光司訳


自分が鍼治療をしているのに、なぜかこの話は好きだ。
忘れがちになる寿命という問題に突き当たると、この話を思い出す。
3番目の医者の言葉は内側の生命力を呼び起こしたのだと思う。
ある種の諦観は治癒力を高める。


列子 力命篇 「人間の生死寿夭は自然である」
p343“楊朱の友人に季梁という男がいたが、その季梁が病気になり、十日ほどすると重態に陥った。
彼の子供は枕元を囲んで泣きじゃくり、医者を呼ぼうとする。すると季梁は見舞いに来ていた楊朱に向かってこういった。
『僕の子供の出来の悪さは、ごらんの通りでお話にもならない。君、ひとつ僕のために歌でもうたって彼らを諭してくれないか?』
季梁に頼まれて、楊朱は次のような歌をうたった。

天其弗識  寿命の長短は天道さまにも分からない。
人胡能覚  ましてや人間に何が分かるというのだ。
匪祐自天  祐(しあわせ)も天から授かるわけでなく、
弗孽由人  孽(わざわい)も人間が招くわけではない。
我乎汝乎  わたしや、きみには
其弗知乎  ちゃんと分かっていることだが、
医乎巫乎  医者や神がかりふぜいには
其知之乎  分かりっこないことだ。

しかし、季梁の子供には楊朱の歌の意味が分からず、結局3人の医者を頼んだ。
その一人は矯氏といい、二人目は兪氏、三人目は盧氏。
この三人の医者が季梁の病気を診察したが、矯氏は先ず季梁に言った。
『そなたは寒暑のしのぎ方に節度をたがえ、心身の虚実の在り方にバランスを崩している。
この病気は、食事の過不足、性の欲望、精気思慮の過剰な浪費によるものであって、天のせいでも悪鬼のせいでもない。病状は悪化しているが、治療することはできるのだ。』
矯氏のこの言葉を聞いて、季梁は言った。
『月並みな医者だ。すぐに追い返せ。』
つぎに第二の医者、兪氏はこう言った。
『そなたは生まれてくるとき、母の胎内で受けた精気は不足していたのに乳を飲みすぎている。
病気は一朝一夕に起こったことではなく、その原因は長い間に次第に積み重ねられてきたのだ。
なおせる病気ではない。』
兪氏の言葉を聞いて、季梁は言った。
『立派な医者だ。まあ食事でも出してやれ。』
最後に第三の医者、盧氏は言った。
『そなたの病気は、天のせいでもなく、人のせいでもない。この世に生を稟けてその体を授かったときから、すでにそれを運命づけている者がいるのであり、その道理のちゃんと分かっている者もいるのだ。薬や針では、そなたの病気などどうすることもできないのだ。』
盧氏の言葉を聞いて季梁は言った。
『すばらしい医者だ。鄭重に贈り物をしてお帰し申しなさい。』
それからたちまち季梁の病気は、ひとりでに全快した。”

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乳幼児の心理的誕生 母子共生と個体化  M.S.マーラー他著


この本に出てくる「最も原始的な分化」は東洋医学でいえば陰陽であり、陰陽が生じるのを認識する「それ」は対象のない状態だろう。
M.S.マーラーはその状態を「正常な自閉」であり、「『無条件の』全能的、<自閉的>球」と呼んでいる。
そこから段階を踏んで、3歳ぐらいまでに母親から自立していくプロセスを「分離-個体化」と呼んでいる。
そのプロセスには皮膚への接触が大きく関わっていると思われる。
鳥が卵を暖めることで雛が孵化するように、人は心のこもった皮膚接触によって「分離-個体化」するのだと考えている。
それ(分離-個体化)ができていなくても身体は大きくなるが、目に見えない境界は確立できないままであり、いつかどこかで分離-個体化をする必要が生じてくる。

自己感の中心が定まった、安定した状態は治癒力が働きやすい状態でもある。
鍼治療は皮膚からバランス(平衡)を整えるサポートをしている。

p57“乳児の内部感覚は自己の『核』を形成し、『自己感』の中心的結晶体の点として残るように思われる。そしてその周辺に『同一性の感覚』が確立されるようになる。一方、感覚知覚器官、フロイトが『自我の末梢の外皮』と名づけたものは、主に自己を対象世界から区分する助けとなり、これら2種類の内部精神的構造は共に自己-見当識self-orientationの枠組みを形成する。”

p59“最も原始的な分化でさえ、もし心理生理学的平衡が達成されれば生じ得るのである。”

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大往生したけりゃ医療とかかわるな  中村仁一著


著者は医師なのだが、父親が鍼灸師だったこともあって東洋医学的な考え方、東洋思想的な死生観があると感じる。
そして実際の老人ホームでの看取りの経験が多いため、説得力がある。
医療との関わり方についても、いろいろ考えさせられる内容。
TVと新聞は製薬会社が大スポンサーなので、こういったことは報道されない。
それらを信じている人には、かなり常識外れに感じるだろうと思う。

p85“普段、私たちの体内からは、自分の身を守るため、あるいは行き続けるために、いろいろなサインが出されているはずなのです。ところが、ここ30~40年、近代医学の発達に幻惑され、また、医療が非常に手軽に利用できる状況が実現されました。そしてこの内部から発せられるサインをキャッチする能力を他人(医者)任せにした結果、極度に衰退させてしまいました。そのため、多くの人が『死に時』を逸し、病院でだらだらと生かされ、挙句に、悲惨で非人道的な最期を迎えるようになってしまいました。そこで、この働かなくなった、サインのキャッチ能力の錆落としをしなくてはなりません。”

p175“うつらない生活習慣病では、その原因が、ご先祖さんから受け継いだ糖尿病になりやすい素質、高血圧になりやすい体質、それにあまり運動もせずにたらふく食べる食習慣、塩辛いもの好きなどという悪い生活習慣、さらに老化もからんで、40歳ぐらいから発症してくる病気です。これはいってみれば、内から出る病気です。 したがって、これを排除したり、撲滅したりすることは叶いません。ならば治そうと思わず、治らないものなら治さなくてもいいと明らめ、上手におつき合いすることが肝要です。”
 

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からだの意識  サイモン・H・フィッシャー著


ボディ・イメージと「身体境界」についての本。
親子間の境界をしっかりと、”親が”認識することの大切さを強調している。
子供は親の所有物ではなく独立した存在であり、親である自分とは異なった感じ方・考え方・生き方をする個人として尊重すること。その土台となるのはまず身体だ。
子供の身体を自分の身体とは分離した対象として観ることであり、そのもっとも基礎的な境界は皮膚だと考えている。
そして直接手で触れることも大切だが、親が子供の皮膚に小児鍼をすることを勧めている。
それは親の側のトレーニングともなるからだ。
何かと制限を加えて子供をコントロールすることで、子供の独立を阻み、自分の所有物としてみなす親は多い。
自分も親にそうされたケースも多いのだろうと感じる。
しかしそのループを断ち切るためにも、子供の独立性を尊重することのトレーニングとして小児鍼は有効だと思う。
鍼という道具を介した方がより客観的になり、子供の独立性を尊重できると考えている。

p15“身体から得られる情報に対して盲目であり、また、根本においてそれを疑問視してきた現在の社会化の習慣によって、いかに多くの大切な情報が人生から排除されてしまったかを認識する日が多分そのうちに来るであろう。”

p74“しかしながら私は、身体感覚は、しばしば、注意深く論理的な結びつきをたどるよりも、ずっとよい行動の導き手となりうることを指摘しておきたい。身体の快感や不快感は、個人とその環境との間に一致があるか、一致に欠けるかという、きわめて基本的な問題から引き起こされる。”

p75“幼少期において、子供は、身体からの助言を信じ、その身体的な反響を通して、状況について多くのことを知る。それによって、何が自分にとって良いかについて、多くの賢明な知識を蓄積するようになるのである。”

p125“早期においては、少なくとも両親は、子供に起きたことは何でも自分に起きたこととして受け止める傾向がある。この態度はふつうしだあいに弱められ、しばらくすると、子供と両親との身体がはっきり分離され、やがてそれぞれの身体が確立するのである。しかし、多くの家庭では、この過程に長い期間を要し、青年期に至るまでこれが完成されないことも多い。この事態に関して私が強調したいことは、子供に次のような初期の基本的なメッセージを植えつけてしまうことである。『お前の身体は私にとって分離した対象物ではない。好むと好まざるとにかかわらず、お前の身体は私に結びついている』。また、この「結びつき」というメッセージに隠されているのは、親の身体は部分的に子供の所有物であり、親の身体に起きることは子供にとっても衝撃にならなければいけない、という考え方である。”

p215“自分の身体的体験を熟知すると、事象の解釈がどの程度『感じ』方によって形成されるかをいっそう学ぶことができるようになる。さらに、物事に対する自分の観点がどれほど内的情動の枠組みに依存しているかについて、繰り返し暗示を受けられるようになる。内的感覚が事象の解釈に影響する、というこの事実は明らかになりつつある。~最後に、自分の身体で観察することほど、自然界の事象と直接的な関係をもてる方法は、皆無とはいわないまでも、他にはほとんど見当たらないということを強調しておきたい。”

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象徴と社会  V.ターナー著


社会学を専攻していた学生時代に何回も読んだ本。
改めて読み返すと、こんな文章あったんだと気づくことが多かった。
皮膚への鍼治療を続けていくと、少しずつ「自分」という境界が変化・変容していく。
それは「ある状態から他の状態への移行」であり、著者のヴィクター・ターナーやファン・へネップや示した通過儀礼(分離期→過渡期→統合期)と似たようなプロセスを辿ることになる。
そしてコミュニタスに至ることで、治癒が促進される。

p173“一体性を求めることは多様性を否定することではなく、人と人を分け隔てたり、すぐ善悪に二分することをやめることにほかならない。”

 p173“明確な意識に支えられた巡礼者にとって、巡礼とはコミュニタスを体験する機会であるとともに、治癒と再生の源であるコミュニタスの根源へ到る旅でもあるといえよう。”

p50“コミュニタスが形づくる紐帯は次のような理由で反構造的といえる。その紐帯は未分化で平等的であり、人と人とを媒介物なしに結びつけ、不合理ではないが非合理的なものである。”

p51“コミュニタスは『境界状態』においてはっきりと姿を現わす。”
 

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共依存症 心のレッスン  メロディ・ビーティ著


 

自分で共依存症などを治していくために参考になる本。
他者と境界線を引けるようになるためのレッスンを自習していくことができる(かもしれない)。
著者は機能不全家族で育ち、性的虐待、誘拐された経験、アルコール依存症、そして薬物中毒になって強盗で逮捕されるなど様々なことがあり、その後どのように安らぎを見出していったかを本人の経験を通じて書いている。
医師や研究者が客観的に書くのとは迫力が違う。
ただ、著者は自分の過去を「共依存症」として「精神障害、境界性人格障害、強迫性障害と混同する人もいる」などと明確に境界線を引いているが、読み進めていくといっそのこと「メロディ・ビーティ症」と呼んだほうがいいと感じた。
最後は自分個人の問題なのだから。

p164“自分を愛さなければ、他人を愛せるようにはならないと主張する人がいる。だが、愛し方を知らない人が、どうやって自分を愛せようか?”

p201“他にも、順風満帆な人生を送っているように見える類の共依存症者もいる。彼らは依存症者に共依存しているわけではない。社会に共依存しているのだ。彼らは社会規範に従おう、道徳的に正しくあろうとするあまり、自分を見失ってしまう。自分の声に耳を傾けない。彼らは、こうしなければと思うことをやっている。やらないと不安だからとか、または世間を喜ばせたいからという理由で。”

p18“共依存症者を『思い通りにしたがる人』と呼ぶ専門家がいるが、これは侮辱的な表現だ。あるセラピストは『彼らは、超人的な頑張り屋なんだよ』と言ったが、この表現のほうがやさしくて的確だ。多くの困難を切り抜けた人たちは、問題を解決する能力と我慢強さ(共依存症の2つの長所)を、第二の天性として身につけるのだ。”

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毒になる親  スーザン・フォワード著


親子関係の問題をしっかりまとめた本。
たいていの心のパターンは親子関係が種となっていて、それを自覚できていないと、見当違いのところに自分の負のパターンの原因と解決を求めることになる。
それは親と直面すること、親に傷つけられたことに直面するのが、あまりにこわいからだ。
親が自分を愛していない(愛していなかった)という現実を受け入れるのはとてつもない恐怖だ。
しかし心身の慢性的な症状があり、尚且つ親子関係に問題を抱えている場合、治癒のためには親との問題をありのままに観ることは避けて通れない。

病気になった時に、よく「お大事に」と言われる。
でも、自分で自分を大事にすることができない人はとても多い。
親から大切にされたことがなければ、親から「私はあなたを大切にしている」といわれても実際はそれと逆のことをされていたら、自然に自分で自分を大切にする仕方を習得することはできない。
どこかで「親は自分を大切にしていなかった。そして自分もまた自分自身を大切にしてこなかった」と気づかなければ、改善していくことは不可能だ。
気づくのはとてもこわく、そして気づいたら怒りや悲しみが押し寄せる。
しかし、その先にこそ光がある。

p15“自分の身に起きている問題や悩みと「親」との因果関係について気づいている人はほとんどいない。これはよくある心理的な盲点なのである。なぜかといえば、ほとんどの人は、自分の人生を左右している問題の最も大きな要因が親であると考えることには抵抗を感じるからである。”

p19“「毒になる親」に育てられた子供は、大人になってからどのような問題を抱えることになるのだろうか?~ほとんどの場合、その子供は成長してから驚くほど似たような症状を示す。どういう症状かといえば、『一人の人間として存在していることへの自信が傷つけられており、自己破壊的な傾向を示す』ということである。そして、彼らはほとんど全員といっていいくらい、いずれも自分に価値を見いだすことが困難で、人から本当に愛される自信がなく、そして何をしても自分は不十分であるように感じているのである。「毒になる親」の子供がこのように感じるのは、意識的であれ無意識的であれ、親から迫害を受けた時に、『自分がいけなかったからなのだろう』と感じるためであることが多い。外部の世界から自分を守るすべがなく、生活のすべてを親に依存している小さな子供は、親が怒っているのは自分がなにか「悪いこと」をしたからだろうと感じるのが普通である。自分を守ってくれるはずの親が実は信頼できない人間だったなどということは、小さな子供には考えもつかないからだ。”

“相手が変わるか変わらないかは重要なことではない。大切なのはあなたが変わることであり、あなたは相手の反応がどうであるかには無関係に、自分の力だけで過去のパターンから変わっていくのである。”

p305“その翌週、彼女は息子に対する謝罪を実行することにした。やってみると、それまで思っていたほど難しいことではなかった。『自分の親が自分にこう言ってくれさえしたら』と思うことを言えばよかったのだ。親は謝ることよって、子供に『きみは自分の抱いているフィーリングを信じていいのだ』ということを教えることができる。つまり、子供が『親のした(言った)ことは不当だった。あなたがそう感じたのは正しかったのだ』と知らせてやるということである。またそれは、『親といえども間違えることはあるのだ。だが、責任は取らなくてはならない』ということを教えることになるのである。こうして、子供に謝るということは、真に愛情のある人間の行動とはどういうものかを身をもって教えることになるのである。”
 

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脳の中の天使 V.S.ラマチャンドラン著


著者は本の中で『ミラーニューロンは自他を区別していない』と言う。
そして身体(特に皮膚)からの信号が適切に入らないと自分の境界が不確かな状態であり、他者や状況に圧倒されやすい(のまれやすい)と主張している。
そういった問題が様々な心の問題や自閉症とも関連するという仮説を立てて研究しているとのことで興味深い。

皮膚への鍼は自他境界が弱い人に対して効果があると実感している。
精神的にパニックになることなどが減っていく。
おかしなもの(非現実的な事象)を見た、聞いた、などとよく言っていた人が、皮膚への鍼治療を続けていくとそういうことが減っていくし、親をはじめ他者との依存・共依存的な関係が整理されたりする。

もし、自閉症の子どもに見られる自己刺激行動が著者の言うように「自律神経系の覚醒の嵐を鈍らせ」たり、「自己を身体に固定するのを助ける」ためなら、皮膚への適切な鍼刺激でその役割を置き換えていくことができるのではないだろうか。
皮膚表面の情報は外界環境のライブ情報であり生存に重要なので意識されないが大きな意味を持っている。
その中でも特に皮膚表面のツボからの情報入力は大きな影響を及ぼす。
生まれ持った身体イメージが後天的な学習によってどの程度変化するのかは不明だが、皮膚表面のツボへ鍼をすることで皮膚(身体)から脳への信号が活性化して境界意識が高まると考えている。

あと、興味深かったのが共感覚の話。
高機能自閉症のアスペルガー症候群で人の感情を理解し「読みとる」ことが困難な人が、相手の顔のまわりに浮かぶ色で情動を知るという部分。
怒りが青で、プライドが赤、赤と青を混ぜ合わせた紫が傲慢、ということだった。
東洋医学でも”怒”は青だ。
木・火・土・金・水の五つの要素からなる五行論では感情(七情)も色もそれぞれ配当されている。
「木-青-怒、火-赤-喜、土-黄-思、金-白-悲・憂、水-黒-驚・恐」となっている。
そして赤の”喜”は”幸福”ではない。
プライドというのは新鮮な解釈だ。
柴崎保三氏は『黄帝内経素問』で「喜とは、自分の作ったごちそうを田神に食べてもらった感謝と満足感、それに自らのごちそうにありつくよろこびを意味することになるp635」としている。
胃袋やプライドなど枠(自尊感情)が満たされることが”喜”か。
これも必要な感情だが、度が過ぎると問題となる。
そして青と赤を混ぜた紫が”傲慢”。
これは五行の配当にはないが面白い。
紫は日本だけでなく東西で古来より「高貴な色」とされている。
この患者も著者のラマチャンドランも五行論なんて知らないだろうが、こういった五行の配当はひょっとしたら古の共感覚者たちの知覚(の認識)を基に創っていったのかも知れないと思った。
ラマチャンドランは「たとえばプライドと傲慢さは、周囲の社会的状況にもとづいてのみ区別されるものなのだろうか、それとも本質的に異なる主観的特性なのだろうか?(p149)」と書いているが、こういった色と感情の結びつき(共感覚)は古今東西似ているのかも知れない。
(近年表皮で網膜にあるような光受容器であるロドプシンや各種オプシンが見つかっている)

針灸の原点である素問には、
「我を以って彼を知る」素問陰陽應象大論第五
と記されている。
これは外部の知識で相手を理解するというより、ミラーニューロンを作用させて相手のことを自分のことのように理解する、ということをあらわしているのかも知れない。

 
p181“触覚や痛覚などの感覚ミラーニューロンの場合には、なぜ、自動的な発火によって、みたものすべてを感じてしまうということにならないのだろうか?おそらくあなた自身の手の皮膚や関節にある受容体から無効信号(『私は触られていない』)が出て、ミラーニューロンからの信号が意識にのぼるのを阻止するのだろうと私は考えた。無効信号とミラーニューロンの活動が重なって存在すると、高次の脳中枢がそれを、『もちろん共感はするが、あの人の感覚を文字どおりには感じるな』という意味に解釈する。より一般的に言えば、前頭葉の抑制回路と、(前頭葉および頭頂葉の)ミラーニューロンと、受容体から出る無効信号の動的な相互作用によって、他者との互恵性を享受しながら、同時にあなたの個体性を保つことが可能になっている。"   

p213“世界に関する情報は、まず脳の感覚野で識別され、そこから扁桃体に送られる。扁桃体は情動の中核への入り口として、あなたが住む世界を情動面から監視し、あなたが見るあらゆるものの情動的な意義や重要性を判定し、それがささいで平凡なものか、それとも情動的に反応する価値があるものか判断を下す。もし後者であれば、扁桃体はそれを視床下部に伝達し、その視覚風景がもつ情動喚起の価値の程度に応じて、自律神経系を活性化させる-その程度は、ちょっとした興味から紛れもない恐怖まで、さまざまである。したがって扁桃体は、突出性の高低に応じた丘や谷のある、あなたの世界の『突出風景』をつくりだすことができる。この回路がおかしくなってしまう場合がときどきある。情動を喚起する何かに対する自律神経系の反応は、発汗、心拍数の増加、筋肉の準備態勢などとしてあらわれ、あなたの身体を行動に備えさせる。極端なケースでは、この生理的覚醒の高まりが脳にフィードバックされて扁桃体をうながし、『おっと、これは思っていたよりさらに危険だ。もっと覚醒のレベルをあげて、逃れなくてはいけない!』と(実質的に)言わせる。その結果、自律神経系の猛攻が起こる。このようなパニック発作を起こす傾向のある人はたくさんいるが、大多数の私たちは、たいていの場合、自律神経系の大混乱にまきこまれるおそれはない。”

p216“より一般的な言い方をするなら、『自分は、統合され、身体化された自己として存在している』と感じる私たちの自己感は、脳とそのほかの身体とのあいだを行き来する-さらには共感のおかげで、自己と他者とのあいださえも行き来する-こだまのような『反響』に、決定的に依存しているらしい。高次レベルの感覚野と扁桃体とをつなぐ結合に無差別な混乱があり、その結果として突出風景にもゆがみがあるとしたら、その身体性の感覚-身体に固定され、社会に埋めこまれた、独自の自律的な自己として存在しているという感覚-の喪失が引き起こされることは十分に考えられる。それは不安を生じさせる喪失である。おそらく一部の子どもたちに見られる自己刺激行動は、身体と脳との相互作用を復活、促進し、それと同時に、誤って増幅されている自律神経系の信号を鈍化することによって、身体性を取り戻そうとする試みなのだろう。そうした相互作用の微妙なバランスは、統合された自己(私たちが通常、一人の人間として存在することのいわば公理的基礎として、あたりまえととらえているもの)が正常に発達するために、決定的に重要なのかもしれない。そうであるなら、一人の人間として存在しているというその感覚が、自閉症において深刻に乱れているのは不思議ではない。”

p365“ミラーニューロンはあなたが一時的に他者の視点を採用することを可能にするが、その結果として対外離脱体験をもたらすことはない。あなたは文字どおり他者の視点のあるところまで浮遊していくわけではないし、人格をもつ個人のアイデンティティを失うこともない。同様にほかの人が触られているのを見て、あなたの『接触ニューロン』が発火するとき、あなたは、共感はするが、その接触を実際に感じるわけではない。どちらのケースでも、前頭葉が、活性化したミラーニューロンを抑制することがわかっている。少なくともそういうことが起こらない程度には十分に抑制するので、自分の体に固定された状態が維持される。また皮膚の触覚のニューロンも『触られていないよ』と告げる無効の信号をミラーニューロンに送り、ほかのだれかが触られているのを文字どおりに感じることがないようにする。したがって正常な脳では、三セットの信号(ミラーニューロン、前頭葉、感覚受容器)の動的なやりとりによって、あなた自身の心や体の個体性と、あなたの心がもつ他者との相互関係がともに維持される-これは人間に特有の逆説的な状況である。このシステムの乱れが、あとで見るように、おそらく個人間の境界や、個人のアイデンティティ、身体イメージの解体につながるのだろう-精神科領域で見られる、広い範囲の不可解と思える症状がこれで説明できる。”
 

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怖くて飲めない! 薬を売るために病気はつくられる レイ・モイニハン アランカッセルズ共著 古川奈々子訳


製薬会社は様々なマーケティングをしているという本。
日本でもここ10年ほどでそういったやり方が露骨に入ってきたと感じる。
TV番組ではタレントを使って病気の恐怖を煽り、TVCMでは「これこれの症状があれば○○の病気かも知れません。お医者さんへ」とPRしている。
yahooの目立つ広告欄でも「ADHD」が大きく出てくる。
製薬会社も利益を求める会社に過ぎない。
普通に考えてみれば、新たな病気を創り出したり、病気の基準を拡大することが製薬会社にとって最大のマーケティングだ。
そして結構それは簡単にできてしまう。
「原発は安全だ。放射能は安全だ。」と専門家に言わせるぐらい簡単だ。
論文を書かせることも簡単だし、TV番組で流すことも簡単だし、広告も簡単だ。
降圧剤の問題(ノバルティスファーマや武田薬品)は何か絡みがあって表に出ただけで、氷山の一角だろう。

そして病院はマニュアルに沿って薬を出す。
製薬会社の営業は医者への接待(交際費)は上限がないとも聞く。
どれだけ医者にお金をつぎ込んでも、その見返りははるかに大きい。 病気を創り出し、病院に通わせ、薬を飲ませる。 厚労省の天下り先には製薬会社が名を連ねる。

最近では問題多発の子宮頸がんワクチンの副反応が「接種による痛みや不安に対する心身の反応が引き起こしたもの」とされた。
ワクチンはとても儲かるし、定期の予防接種なら何かあっても国が補償してくれる。
製薬会社はどれだけ政治家と厚労省官僚、医者(学者)にお金をつぎ込んでも定期接種にしたいことだろう。
現代医学と対立したり敵視する必要は全くなく、素晴らしい面も本当に多いと思う。
しかし、基本的に薬に関する利益構造は知っておく必要がある。
そうでないと「お医者様の言うことは絶対」と信じ切って、薬や治療法を調べたり身体を感じようとしなくなる。
そしてちょっと薬を調べれば、たとえ詳細に論文等を読まなくても、様々な疑問や突っ込みどころが出てくるだろう。
それらを知った上で自分で取捨選択しないといけない。

  
p13“世界有数の製薬会社メルクの最高責任者であったヘンリー・ガズデンの夢は、チューイングガムを売るように、健康な人々に薬を売ることだった。そんな時代がくれば、メルク社は「あらゆる人に薬を売ることができる」ようになるだろう。それから30年の月日が流れ、故ガズデンの夢は実現した。”

p234“医薬品の安全性と効果を調べるFDAの仕事の半分以上が、審査される薬のメーカーからの資金でまかなわれていたのである。ヨーロッパの多くの国々でも、状況は似たりよったりだった。”
  

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心はなぜ腰痛を選ぶのか サーノ博士の心身症治療プログラム J.Eサーノ著


だいぶ以前に読んだ本。
今読み返しても納得できることが多い。
腰痛などで悩んでいる人、手術を検討している人は一度読んでみる価値はあると思う。

筆者がTMSと名づけた緊張性筋炎症候群という心因性疾患は、腰痛以外でもさまざまな疾患を引き起こすこと、TMSは抑圧された憤怒によって生じることが詳しく説明されている。
現代医学はレントゲン、CT、MRIなどと開発してきたが、多くの”問題のない”構造的な異常を見つけて病気を作り出し、手術をしている。
そして手術して一時的によくなったと感じても、またどこかに問題が生じてくる。
すごい怒りを抱え込んだまま手術をしても、根本的によくなるわけがない。

東洋医学では心と身体の関連性(内因と外因)は当然のことで、感情の種類と症状の種類や症状が出る部位などのつながり(類推)も示されている。
疾患や症状は何の脈絡なく気ままに現れるのではなく、そうなるべくしてそこにそのように現れると感じている。
心の問題に目を向けるきっかけを作るには、まず正確な情報が必要であり、この本では様々な調査結果を引用して構造的な異常が症状を引き起こすわけではないことを明らかにしている。

しかし今後「TMS」という言葉が広まることで、それが一人歩きしはじめるだろう。
それをひとつの疾患名のように受け取り、治してもらおうとする人が増えて、TMSという名前を使って商売しようとする人達も増える。
そうなると、従来のパターンと同じになっていく。
自分の内部に目を向けるべきなのに、外に目が向く(向けさせる)ことになる。
そうしないと大きな商売にはならないから。
でも本質的な治癒からは外れていくことになるだろう。

     
pⅳ“この感情と身体の関係は20世紀前半、西洋医学に受け入れられる一歩手前まで来ていたが、その後ひどく叩かれるようになる。こうした時流が生じた原因は、精神分析理論に人気がなくなったこと、実験室での研究に対する関心の高まり、医師に心理学的問題を敬遠する傾向が見られるようになったこと(医師は自らを人体専門の技師だとみなしている)などだろう。”

p156“病因に感情が関わっているのだから、病気になったのは患者自身のせいだ、というような悪意に満ちた結論を出すのは避けなくてはいけない。細菌に感染したとき、細菌が体内に入るのを『許した』自分が悪いとは考えない。それと同じで、本人を責めるのは筋違いである。”

p161“コーネル医科大学付属ニューヨーク病因の心血管センターの内科医サミュエル・J・マンは、抑圧された感情と『自覚がないために人に説明できないストレス』とが、高血圧の発症の主因であることが多いと結論づけている。」

p175“なんとかして脳の戦略を阻止しなくてはならない。そのために、わたしは患者に次のことを薦めている。
・構造的診断を否定する。すなわち痛みの原因を身体に求めない(TMSは構造的診断が示す身体疾患とは別種の身体症状である)
・痛みが発生する心理的な根拠を認識する。
・自分の心理状態、および、それから派生する問題すべてを、現代社会に生きる健全な人間にとって当たり前のこととして受け入れる。”

p210“ひとつは、自分が心の内でどれだけ激しく怒っているのかわかっていないということです。これを聞いて、なるほどそういうことかと気づく人も多く、そういう人の場合、自分の内的憤怒の凄まじさを認めると、痛みは軽減します。また、怒りの存在を認めるだけでなく、しっかり実感する必要のある患者がいますが、それができていないということも考えられます。”

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バカをつくる学校 ジョン・テイラー・ガット著


アメリカの教師が書いた本。
日本は宗教色が薄いが、学校で首かせをつけられる、と思っていたら、アメリカも同じのようだ(というか、アメリカが持ち込んだようだ)。
以前読んだ五味 太郎の「大人問題 」と似たような指摘だった。

自分が子供の頃は、給食で嫌いなものを掃除の時間になっても無理やり食べさせたり、給食センターに向かって土下座をさせた馬鹿な教師もいた。
最近はさすがに減っただろうと思っていると、放射能絡みで給食を拒否すると教師に非国民扱いされたという記事を見て驚いた。
教師も、特に部活の問題などはかなり深刻だと思う。
ゆとりのないライン作業のように教師を縛って、規格にあった子供を”製造”していくように感じる。
国家の命令に従って他者をガス室に送り込む兵隊を作るためではく、自ら進んでガス室に入る家畜を作ろうとしているかのようだ。
「学校に行きたくない」と言う子供は、無理やり学校に行かせようとする大人達より、案外まともな感性だったりする。

そして、鍼治療をしていて時々感じるのが、「世間(多数派)と異なる選択をする」ということへの不安だ。
何か症状があれば(たとえ症状がなくても検診で)病院へ行って、医師の指示通り薬を飲んだり手術を受けるということ・・・これが世間一般の常識であり、それから外れた選択をすることへの不安感が強い人は多い。
病院治療で良くなってきているかどうか、自分で判断しない、することができない、その権利が自分にないと信じ込んでいる。
当然そういった人は治り難い。
世間、権威に盲目的に従うようにマインドコントロールされているわけだが、そういった基礎は義務教育でがっちり植えつけられるのだと感じている。
皮膚への鍼治療はそういった思い込みも解除していくことになる。
治癒を妨害している、植えつけられた「自己認識」が抜けていく。

少なくとも、義務教育の目的が自分で感じ考え行動する人間に導くことではないことは確かだろう。
結局、学校を当てにせず学校以外の場で学んでいくしかない。そしてそれは身体感覚が基本となる。


p15“私は自分の専門知識を子どもに押しつけるのをやめた。その代わりに、彼らの本来の才能を邪魔しているものを取り除こうとした。私にとって、教師の仕事は、もはや教室で生徒に知識を授けることではなくなった。”

p16“私にとって、教育の成功とは、子どもが自由に試行錯誤できるような無条件の環境を築くことだ。それがなければ、彼らは他人の行動を真似するだけで、いつまでたっても経験が身につかない。また、教育の成功とは、何を学ぶべきか、何が人生にとって大切かという問題について、間違った思い込みを正すことでもある”

p56“自己認識さえ身につけば、彼らは自力でどんどん学んでいくだろう。そして、そうした自己教育にこそ、永遠の価値がある」

p129“私たちが『教育』と呼んでいるものは、じつは世界最大のビジネスの一つであり、そこには伝統的な地域社会の価値観とは相容れない、制度の価値観がある。この百五十年間、学校の主な目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせることだった。つまり、いい教育を受ければ、いい職に就け、いい稼ぎが得られ、いい物が手に入るという図式があるわけだ。この考え方は全米に広まり、各地の高校ばかりか、ハーヴァード大生にも支持された。 たしかに、これはその信憑性や哲学的真理が問題にされないかぎり、親と生徒の両方を容易に支配できる思想である。おもしろいことに、アメリカ教員連盟は、企業が生徒を学校の成績によって採用し、昇進させるように促している。そうすれば、成績=金(カネ)という図式が成り立つからであり、それは医学界や法曹界が長年のロビー活動によって確立した図式と同じである。”

p174“学校は、中央が管理する大量生産経済の『教育部門』という役割を、当初からきちんと果たしている。そうした経済を機能させるのに必要なのは、もっている物や地位によってしか自分の価値を評価できない『人材』なのである。学校は巨大なメカニズムとして、人びとを全面的な管理に従わせ、死ぬまで幼稚でいさせようとする。彼らが必要とするのは未熟な人間だ。なぜなら、成熟した人間や成熟しようとする人間は、そういった管理を拒むからである。”

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