かっぱコラム
「鍼の話」
旅の話 本の話
“ある物を前にしたとき、その最も重要なところは、それが単純で身近なものであるがゆえに目につかない
(いつも目の前にあるから、それに気づかないのである)。
いちばん探求しなければならないところは、まったく見過ごされている。”
ウィトゲンシュタイン
オリバー・サックス著「妻を帽子とまちがえた男」より
目次
鍵
自身の境界が混乱していると、自己イメージが不安定となる。
そして自分ではどうしようもない「自分以外の問題」をどうにかしようとあがき続ける。
心身のエネルギーを浪費して治りにくい状態となる。
もっとも表層に(目の前に)あり、ホメオスタシスの要である皮膚。
単純で身近であるため、鍼の施術対象として多くの場合見過ごされる。
深く刺すことや何か強い刺激で変化することが効果が上がるとされやすい。
しかし皮膚-境界を改めて意識していくことは、治癒の鍵を探す手がかりとなる。
治る鍵は境界にある。
“あの娘は何を探してるの? 失くしたことさえない鍵さ”
♪思い出の瞳 / DATE OF BIRTH
抑圧と納得
鍼のやり方は様々だ。
痛みなどの症状があるところにそのまま鍼をブスっと刺したり、鍼を刺して電気を流すことで一時的に感覚を麻痺させても、身体が元気な時は意外とすぐに症状が取れる場合がある。
まるでヒューズが飛ぶように。
しかし、それは回路を一時的に遮断した結果であり、根本的な解決にはならない。
時間をあけて再発したり、全く関係がないように思える別の問題が生じたりすることもある。
それは、力ずくで相手を抑え込むことに似ている。
症状は心身の訴えであるのに、しっかり受け止めることなく力で無理やり抑圧しても相手側(=心身)は決して納得せず、一時的におとなしくするだけだ。
心身にはそれぞれ役割がある。
皮膚は身体の最も外側の境界として、生存に極めて重要な役割を担っている。
通常意識できない極めて微細な刺激にも反応し、必要に応じて身体的・精神的に対応するように内部へつなげている。
誰でも自分の役割や存在意義を無視されたら嫌だと感じるし、次から役割をしっかり果たす気持ちがなくなるだろう。
それは皮膚も同じことだ。
皮膚の役割を無視した刺激治療では深い納得は生まれない(”腑に落ちない”)。
皮膚に適切な鍼刺激をすることで、全体的に変化して納得と主体性が生じるし、自分と身体との間に信頼関係が生まれる。
ただ、皮膚を破らない鍼なら全て納得が生じる訳ではない。
皮膚の状態、場所の意味を踏まえることなく鍼をしたり、手技が雑だったりするとその影響は皮膚から身体と心に及ぶ。
適当にブスっと鍼を刺されたことよりも負の影響が長引くこともある。
皮膚に接触する鍼は学んで行うのに時間と根気が要る。
「この病気はこのツボで治る」というパターンがないからだ。
でも自分はその鍼を受けるのが好きだし、やっていて楽しい。
はつり
「fettle」という単語をweblio辞書でみてみると、 名詞で、「心と身体の状態、調子」とかいった意味だ。
身体状態だけでなく、心の状態もあわせた状態をあらわす。
ただし、よい意味でしか使わない。
「in fine fettle」など。
そして専門用語としての意味で 「はつり」。
wikiの日本語の説明によると、「斫り(はつり)とは、そもそも石を割ったり削ったりすることである。」 とある。
fettleという単語には動詞もあり、 「鋳造物から型きずまたは砂を取り除く」(remove mold marks or sand from acasting) そして(Northern England) To sort out, to fix, to mend, to repairなどとある。
印欧語根だと、「ped-2 入れ物、容器などの意(vat,fritterなど)」 らしい。
語源のところは、fetle(古期英語)とある。
辞書以外だと、語源は曖昧だが、「ベルト、重労働の用意をする」などが出てきた。
なぜこの単語が身体と心のよい状態「だけ」を表すようになったのか自分はわからない。
でも、
・入れ物。容器。
・形作るために枠を整えること。準備すること。修理すること。
・型枠から取り出した鋳造物についた型クズや砂を取り除くこと。
などは、何となくここでやっている施術と重なってくる。
皮膚(感覚)は身体の境界である。
「枠」と言えるだろう。
それは身体イメージだけでなく、心の状態とも密接につながっている。
それをフィットするように調整することが、「斫る(はつる)」。
「fettle」から「fettling」になると、「未乾燥の粘土陶器の表面を剃る、もしくは滑らかにする操作」の意味を持つ。
そうなると更に体表の偏り(緊張と弛緩など)を調整し、滑らかにしていく体表の鍼施術とかなり感じが似ている。
枠(皮膚電位)の部分的異常をはつり、中心から生じる見えない鋳型(電場、生命場)にフィットさせていく作業。。
それによって、身体と心が「in fine fettle」となる。
それは余分な力み(無理)のない、現実に対して準備ができている状態なのだろう。
体表(皮膚)に刺さない鍼をする自分の仕事は「はり師」でなく「はつり師」だろうか。
気づくこと
鍼を受けた後、全身もしくはある部分に疲れを感じるときがある。
直後の時もあるし、翌日のこともある。
その後、すっきりする。
疲れている現状に気づくことで解消へ向かう。
鍼を受けた後、ふっと足を冷たく感じるときがある。
その後、温まってくる。
足が冷えていることに気づくことで、解消へ向かう。 鍼を受けた後、片方の目の周辺や側頭部が疼いたり、痛みを感じるときがある。
その後、ゆるむ。
それまで偏った眼の使い方(観方)をして緊張していたことに気づくことで、解消へ向かう。
鍼を受けた後、不快な感情が出てくることがある。
それまで、自分にとってストレスだったことに気づくことで、解消へ向かう。 心身のつかれや過度のこだわりなどがあると、自分の身体や心の状態を的確に把握できなくなる。
東洋医学的に言うとそれらは全身を巡っている気が全体的に不足していたり、働きが鈍っていたり、偏っていたりする状態だ。
そのため、バランスが乱れていても修正する動きが始まらず、自然治癒力がうまく働かない。
そのような状態の時、皮膚表面に他と異なるエアポケットのようなポイントが生じている。
それがツボだ。
そういったツボに対して鍼をすることで、心身の状態が現実に合ったものになっていくプロセスがはじまる。
同時に、現在の心身の状況を自覚することができる(=気づく)。 ギャップが大きい場合や長期間に及んでいる場合は時間がかかったり、施術回数が必要となることもある。
しかし施術を受けていくことで、少しずつ鍼施術を受けなくても自然に「気」が「つく」ようになっていく。
痛いところ
痛いところに鍼をしないのは何故か。
痛いところや症状の出ているところ(局所)にそのまま鍼を刺す鍼灸師は多い。
しかし皮膚表面に鍼をする場合、痛い所など症状の出ているところには基本的に鍼をしない。
もちろん症状が出ているところに鍼をする場合もゼロではない。
しかし、最初の選択肢としては挙がらない。
これは刺さない鍼を学び始めた頃の大きな課題だった。
「症状を起こしているのは経絡の変動が原因であり、それを整えるツボは離れたところにあるから」 ということはよく言われる。
それではなぜそのツボは離れたところに出るのだろうか。
考えていくと日常生活でも同じようなことがある。
たとえば既に目一杯頑張っている人に無神経に「もっとがんばれ」と声をかけて、反感を買うことがある。
元気がない人に「元気を出せ」と言って余計に落ち込ませてしまうことがある。
症状が出ているところ(皮膚)は頑張り過ぎているか元気がない状態であり、そこに施術すると同じようなことが起こりやすい。
また、もし嫌いな人とうまくやっていこうとしたら、嫌いな人の中の嫌いな部分を好きになることは極めて難しい。
逆に嫌いな人の中にたとえ少しでも良い部分を見出したり別の側面から見直したりすると、嫌いだった部分も以前ほど気にならなくなったりする。
同じことは自分と身体の関係においても言える。
身体の中で症状が出ている部分ではなく、症状が出ていない部分に心地よい刺激を受けることで身体への意識が「ふっと」変化することがある。
そういった身体上における「異なる視点・立場」や「嫌いな人の中の好きな部分」は、症状の出ている反対側(左右、前後、表裏、上下、陰経陽経など)にあることが多い。
そのような所のツボに鍼をすると、変化が生じて治癒力が働きはじめる。
皮膚は心と密接に結びついている。
そして身体の最も外側に位置して触れることができる。
皮膚は目に見え、手で触れることができる心と言える。
轍(わだち)
鍼施術を受けることで身体の動かし方が変化する。
たとえ単純な動きでも、背後にはそれをそのように行っている無数の要素がある。
位置の把握であったり、動かす角度や滑らかさ、他の部分との協調であったりなど、複雑に要素が絡みあっている。
そして、心とも結びついている。
鍼施術は普段無意識に行っている動きに対して、よりよい動かし方に気づくきっかけとなる。
筋トーヌスが変化することで、それまでより意識的になるからだ。
動作をする時に制限や痛みが生じる場合、何らかの刺激を受けてそれまでのルートから外れてしまうことがある。
そして痛みが出る新たなルートを通っている状態だ。
きっかけの刺激が大きくなくて、それほど日が経っていなければ、新たなルートの轍は深くない。
安静にして痛みがなくなった時点で慎重に動かし始めれば元のルートに戻ることが多いし、ショック療法でも戻ることがある。
しかし、ショック療法では動き自体はあまり意識化されず改善されない。
慢性的な場合は治まるまで時間がかかる。
新しいルートの轍が深くなっているからだ。
その場合、少しずつ痛みが出るルートの轍を浅くしていく必要がある。
このような場合にもショック療法(強刺激)で「ピョン」と新たなルートに行き、症状が即時的になくなることがある。
しかし何かの拍子に残っている元の轍に戻ってしまう。
再発した症状に対してまた強刺激を与えるということを繰り返していくうちに、新たなルートと元のルートとの間の「横の轍」ができる。
そして更に元の轍に戻りやすくなり、良い状態の時間がだんだん短くなっていく。
問題の本質は何ら変わらず、自転車操業となる。
ショック療法は強刺激を受け入れることのできる元気がある人に限られるが、そのやり方を繰り返していると弱ったときや年をとった時に通用しなくなる。
皮膚へ接触する鍼では痛みが出るルートの轍を少しずつ浅くしていくことを目指している。
ルートやきっかけの刺激が心と結びついている場合、不快な記憶と直面することもあるが、轍を少しずつ埋めていくことで、時には行きつ戻りつしながらも少しずつよくなっていく。
こういったことは身体の動きだけでなく、身体内部の働き、心の働きでも同じだ。
選択
どちらが自分にとって良いのかと迷うことは多い。
たとえば、重大な病気になった時に医者Aと医者Bを周り、意見が異なる場合にどちらを選ぶか迷う。
医師という専門家と意見を交換することも難しいし、集めた情報を基に自分にとってよりよりと思われる判断をすることは難しい。
まして、病で心身が弱り、判断力が鈍っている時は尚更だ。
そういう時に鍼施術を受けることで、判断がしやすくなる。
たとえ病が重く鍼の効果が一時的であったとしても、身体が楽になり精神的に落ち着くことで、納得して医者Aか医者Bか選択することができるようになる。
長期間継続して鍼施術を受けていけば、更に迷いが少なくなる。
自分(頭)が身体の声をよく聞くようになるからだ。
逆に「何を選択するか」を外から具体的にアドバイスすることはマイナスとなることが多いと感じる。
鍼治療は言葉で「これがいい、あれがいい」と言うのではなく、その人の内部にある選択プロセスを改善することに意味があると考えている。
身体という自然に沿った無理のない選択がなされていくことは鍼治療の目的のひとつだ。
そして無理がなくなっていくと”選択する”という意識も次第に薄らいでいく。
全体最適
病院で何科に行ったらいいか分からないということはよく聞く。
いくつもの科を掛け持ちしたり、複数の病院に通っている高齢者は珍しくなく、大量の薬を飲んでいることもある。
現代医学は科学技術の進化とともに専門領域は深くなり、細分化している。
そのため身体の一部やある症状といった”部分”を”全体”から分離して観ることが多い。
したがって、ある部分についての医師の意見は必ずしもその人全体にとっての最適を保障するものではない。
全体から切り離して考えた部分の最高は必ずしも全体最適とはならない。
ある部分にとってのみ最高なことは他の部分にとっては都合が悪いことがある。
身体は社会と同じく、助け合って、理解しあうことで、うまく成り立つ。
それぞれの部分にとって最も都合のよいことだけを主張したら全体としてうまくいかない。
結局、全体としてどうなのかという視点が必要となる。 全体からの視点はその人の生き方や価値観といった問題と切り離すことができない。
何が幸せかを自分で判断するように、何が最適かもまた外部に依存することなく自身の内的な感覚に基づいて判断するものだ。
鍼施術の目的は、全体最適を支援をすることにある。
施術対象は全体を覆っている皮膚であり、皮膚から全体に働きかけることができる。
そうすることで内的な感覚が活性化し、全体にとっての最適を目指した選択(反応)をしていくようになる。
そしてその選択の中には現代医学も含まれる。
刺激の量
体表のツボに鍼施術を受けた人は無意識のうちにその刺激を覚えていく。
それによって同じような症状が起こりそうなときに、心身が鍼による刺激のイメージ(=良くなる方向)を思い出し、以前より落ち込みが少なくなったり、抜け出すのが早くなる。
もし、様々な刺激が複雑に混在していたり、強い刺激だとイメージを覚えて自分で再現していくことは難しい。
刺激過多(やり過ぎ)が強く戒められる原因もここにある。
治療を受ける側としては「たくさんやってもらって少しでも早く治りたい」と考えて要求することがある。
しかし、要求に応えてそれをすると逆に治らない。
自分が何かを学ぶ際に消化できるペース以上に課題を与えられたら、頑張り過ぎるか放棄するかのどちらかで結局学ぶことができない。
同じように、刺激が多すぎると心身が刺激のイメージ(=良くなる方向)を学んでいく妨げとなる。
それを続けると、施術後の良い状態が徐々に短くなったり、さらに強い、多い刺激を求めるようになる。刺激に耐性ができて、依存的になるからだ。
そのような状態は「学び」とは真逆の「中毒」といえる。
ガチガチになっている所をそれ以上の力で揉んだり、電気をかけたり、鍼を深く何本も刺したりして柔らかくしようとしても、人の身体はスーパーで売られている死んだ肉とは違う。
その場は柔らかくなっても、頭(脳)はその場所に対して更に固くするように指示を出すだけだ。
繰り返す毎に更に固くなっていくことになる。
こうした依存的な「中毒」は積み重なることで更に頭と心身のズレを拡大していく。
学ぶことができる範囲に刺激量を収めるために、施術者は常に相手の状態を感じ取っている必要がある。
それは鍼施術が流れ作業やマニュアル的にできない理由のひとつである。
仕方
はじめて来た人に、
「治りますか?」「何回で治りますか?」
などと聞かれることがある。
それは武道や格闘技の道場に行って
「何回であの技ができるようになりますか?」
もしくは英会話の学校に行って
「何回で英語が話せるようになりますか?」
と聞くのと同じようなものだと思う。
聞きたい気持ちも分かるが明確に答えることはできない。
同じような衝撃を身体に受けても、うまくショックを逃がす人と、もろに衝撃を受けてしまう人がいる。
同じような事を言われても、傷つき引きずる人と、うまく受け流す人がいる。
そういった差異は生まれ持った要素からまず生じる。
運動に生まれつき素質があるのと同じように、生きる力、適応する力にも素質がある。
愛情をしっかりと受けて育ったならば更にその能力は磨かれるだろうし、周囲の人が様々な刺激や状況に対応して生きる能力が高かったらそれも有利にはたらくだろう。
しかし、それらは自分の力ではどうしようもないことだ。
慢性的な心身の緊張は、ある刺激、状況に対して心身が対応できなかったことが積み重なって生じている。
それから生じた症状の治癒は、きっかけとなった刺激や状況に対応する「仕方」を新たに学ぶことと言える。
刺激に対して対応できなかったその時の自分をどれだけ責めても、自分に素質がないことをどれだけ嘆いても、周囲の環境を恨んでも、解決にならない。
その時の自分には「仕方」がなかった、もしくはそれがベストだったのだ。
自分自身の現状を認識し、今から対応の「仕方」を学んでいくことが唯一できることであり、解決への道となる。
知らなかったことを知ること、できなかったことができるようになることは楽しいことだし、喜びだ。
学びは慌ててするものではなく、学ぶのが早い人もいれば遅い人もいる。
でも学びはじめるのに遅いということはない。
♪Fix you Coldplay
種
風邪などの病気になった時、自分の中にある力で治るプロセスを見守り、実感することは大きな経験となる。それは自信の種(たね)となる。
その後の人生において自分を支える自信となり、独立して生きる力となり、その人の周囲にも影響が伝わっていく。
逆に手っ取り早く症状を抑え込むことだけを考えて、外部の何かに依存(信頼ではない)していてはその場限りで種が残らない。
自分の中の生きる力を信じることができず、恐れが生じるようになる。
そして周囲にもその恐れを撒き散らかす。
鍼治療は自ら治ろうとする力(自然治癒力)を発揮することが目的だ。
それは子供が自立できるように育てることと似ている。
親が子供に対して「あれがいい、これが悪い」とやっていると、いつまでたっても子供は自分で感じ、考え、行動することができない。
自分の中にある力で身体が治ることを経験するのは、薬で手っ取り早く症状を抑え込むよりも遥かに大切なことだと思う。
それは生きていることを実感できるから。
経営者
自分がある会社で働いているとする。
そこには当然、経営者がいる。
もしその経営者が、
・上手くいったら全て自分の手柄で、上手くいかなかったら社員のせい景気のせいにしたりするような人だったらどう思うか?
・自分の給料は下げずに社員をリストラする人だったらどう思うか?
・社員の言うことは聞く耳もたず、高いお金を払って外部の人間の意見ばかり聞いたりする人だったらどう思うか?
誰でもそのような経営者にはついていきたくないだろうと思う。
社員のやる気は出ないし、会社のためにしっかり働こうなどという人は徐々に減って社内に嫌な雰囲気が蔓延することだろう。
そして会社のことは何も考えず、自分の保身のみを考える人だけが経営者の周りに群がるだろう。
そうなると経営者に正確な情報は入ってこなくなる。
正確な情報が入らなければ、自分の判断や指示がどのような結果をもたらしているか実態を知ることができなくなる。
経営者は現実と合わない判断をしたり、ひたすら過去と同じ指示を繰り返すようになる。
これと同じことが身体で行われていることに気づいていないことは多い。
・身体の声を聞こうとせず、マスコミや本、権威ある人の意見を盲目的に信じてしまう人。
・自分の生き方は見直さずに、問題(症状)が出ている身体の特定部位(腰が悪い、肩が悪い)のせいにする人。
・悪くなったら特定部位を「自分」から取り除くことを第一に考える人。
・「悪くなったのはあれのせい」など責任を他へ転嫁する人。
そのような経営者である自分には社員はついていかない。
身体からの情報は届かなくなり、現実と合っていない判断と指示が繰り返し出され、混乱し疲弊していくだろう。
もし自分が社員ならば「会社が順調なのは社員のおかげ」、「会社が上手くいかなかった場合、責任は自分にある」と考える経営者に魅力を感じる。
そういった経営者であれば、会社のため、経営者のために社員はやる気を出して仕事をするだろう。
実態を把握するための正確な情報が経営者に伝わり、適切な対策を取ることができるだろう。
その結果、魅力ある会社となり、業績も上がるだろう。
身体という組織も同じことだ
習慣
東洋医学、特に漢方では症状の改善の他に、継続して服用することで体質改善という言葉がよく出てくる。
鍼治療から観ると、そういった体質改善とは習慣の変化だと考えている。
何か症状がある時、それと関連した習慣が背後にある。
そういった習慣は治癒力を制限している「見えないロープ」と言える。
ロープを切ろうとしても意味がない。
ロープもまたその人の一部であり、しかもその人が全体より優先しているものだから。
たとえその場、ロープを切ったとしてもより強いものをまた作り出すだろう。
解決するには「見えないロープ」を認識しようとすることだ。
鍼施術はそのサポートとなる。
軽い問題の場合はロープに早く気づき、気づくことでロープが解ける。
慢性的な問題、重い問題の場合はロープに気づくのに時間がかかったり、解けてもまたすぐに囚われたりする。
施術を受けてロープが緩み、そしてまた囚われるということを繰り返していくうちに、次第に症状を引き起こしているロープ(習慣A)に気づくことになる。
その習慣Aは普段、無意識に行っているが、それが積み重なってあるレベルを超えると症状が出現する。
最初は習慣Aが症状を引き起こしてから、もしくは症状がひどくなってから意識することになるが、次第に早く気づき、止めることができるようになる。
そのうち習慣Aが出てくるときに、それを止めるもしくは方向を変える気づきが自然と現れるようになる。
こうした気づきは新たな習慣(習慣B)と言えるが、習慣Aからの「脱習慣」「脱学習」などの言葉が合っていると感じる。
こうした習慣の変化が「体質改善」と呼ばれるものだと考えている。
反応
人は刺激に対して反応する。
反応は身体的・精神的に特定のコースを取っていき、パターンを形成する。
それは積み重なると習慣となる。
刺激に対する反応は、そのほとんどが無意識に処理が行われている。
それ自体が自分の一部であるが、それが自分の全てではない。
通常の状態では気づかないが、その流れを認識している「自分」もいるからだ。
その流れを客観視できると一連の流れに変化が生じる。
それは学ぶということだと言える。
学ぶきっかけは「感激」が多い。
何かに感動することによって一瞬「我」を忘れる。
その刹那、内的な世界に没入する。
同じように体表への明確に意識できない鍼刺激とそれ対する反応(主に筋緊張の変化)の自覚、その間に「間(ま)、間隙(かんげき)」が生じる。
その”間”によって、それまで意識できなかった反応パターンを認識(観察)している存在に気づく。
そして間隙から戻った時、それまで習慣的に無意識で行っていた心身の反応パターンの一部を客観的に観ることができるようになっている。
そういった学びが必要なのは、ある状況において身体的・精神的に対応できなかったことが心身状態は不快な記憶となって残っている場合だ。
不快な記憶を忌避したいと思えば思うほど深く心身にそのパターンが刻まれて、たとえ表面上忘れていても再現されるように繰り返されていく。
パターンが繰り返される毎に抑え込むと、更に深く刻み込まれ、抜け出すことが難しくなる。
その場合、そういった無意識に生じる負の反応パターンを学んでいくことが必要になる。
しかし、自分でそのきっかけを作ることは難しい。
元々、不快な記憶を忌避したいという気持ちが根底にあり、問題に対して自分の意識を集中することが困難だからだ。
体表への鍼施術はそういった状況に対して反応パターンを観察するサポートとなる。
頭で考えて「こうあるべきだ」とモノサシを外に持って変えていこうとしたり、「自分の全て変えないといけない」と感じると無理が生じる。
習慣を変えようとする必要はなく、認識されることで自然と変化していく。
自分の心身にとって自然で楽であること、ただ心地よさを感じ取っていくことが大切だ。
学んでいるという意識も不要で、あとになって学びだったと気づく。
注意
鍼施術を行う時、「心身の間違いを鍼で修正する」などと考えているうちはうまくいかない。
力が入っている人に「力を抜いて」と強く言ってもますます固くなるし、猫背の人に「姿勢を真っ直ぐにしろ」と言ってもかえって緊張するし、その状態(緊張)がより固定化するのと同じだ。
そういったやり方では本質的に問題は解決しない。
基本的に人は今の自分を変えたくないと思っている。(変える必要がないとは異なる)。
特に病気のときは頑なになっている。
そのような相手に対して、
「心身の間違いを鍼で修正する」
などと考えていると、一方的な批判となってしまい意味がないどころか逆効果だ。
施術者は、その人の意識が届いていないポイント(ツボ)を見つけて注意する。
批判ではなく、「意を注ぐ」ことで変化する。
ツボが変化することで、全体が自然な方向に向かっていき、治癒力が発揮される。
絶対儲かる話
「絶対儲かる話」に慎重な人は多い。
怪しげな儲け話で詐欺にあったニュースを観ると、多くの人は自分は引っかからないと思う。
しかし、普段慎重な人もお金への欲望や不安に付け込まれて、冷静な時なら引っかからないような話にも飛びついてしまうのだろう。
「絶対儲かります」と「慢性病、難病が手っ取り早く治ります」というのは似ている。
普通なら怪しいと感じるはずのことが、自分の身体が不調で心が弱っているときは甘いお誘いの言葉に飛びつきやすくなる。
しかし、世の中そんな旨い話はない。
「絶対儲かる話」にお金を注ぎ込むのと同じく、「慢性病、難病が手っ取り早く治ります」に飛びつくことで、せっかく今ある生きる力を逆に減らすことになるだろう。
心身が弱っているときほど落ち着いて考えて、見極めないといけない。
選ぶ側としてはそういった外向けの何かを基準にするのではなく、その人がどのようにやっているか、自分がどのように感じるかを大切にするしかない。
それはどんなことでも同じだと思う。
病気の原因
病気になった時、その原因を考えることは多い。
たとえば風邪を引いたと感じて、病院で検査をした結果ウイルスが出ると、それが病気の原因とされて薬を飲んだり、注射を打ったりする。
しかし、同じような条件でも感染しなかった人がいるのに、なぜ自分がウイルスに感染したのか?
自分の免疫力が落ちていたとすると、なぜその時免疫力が落ちていたのか?
何らかのストレスがあったとしたら、なぜその時ストレスがあったのか?
それをストレスと感じた心の在り方はいつどのように形成されたのか?
遺伝なのか?それはどこからはじまったのか?
また、ウイルスに感染したと思う日、人が多く集まる場所に行ったとしたら、行こうと思ったこと自体が原因なのか?なぜ行こうと思ったのか?
などなど病気の真の原因を考えていくと、因果は無限に広がり、続いていく。
生まれてからの全ての経験、生まれる前からの影響(遺伝)など、どこまでも遡る事ができて結局どこまでいっても病気の真の原因などは分からない。
それは「死」や「寿命」を考えるのと似ている。
現実はどこからはじまったか分からない無数の因が集約されて病気になったといえるし、全てが関連してなるべくしてなったのだとしか考えようがなくなる。
したがって、病院に行く時は医師に一つの見解を聞きに行くぐらいに考えていれば無理がない。
逆に、病気の真の原因を教えてもらおうと医師に期待することは現実と離れていて無理が生じる。
そしてあまりに依存的になると治癒力が働きにくくなっていく。
病気の原因は考えても分からないが、何となく病気に関して自分でふと気づくことがある。
他の誰にも分からないが、自分にとっては腑に落ちること。
それが治癒には重要だと思う。
気づくことで考え方に変化が生じ、その背後で身体状態も変化していく。
鍼施術は外から原因を教えるのではなく、そういった気づきをサポートしている。
施術者
施術者の存在、役割とは何だろうか。
治癒のきっかけを作る。
自然治癒力を高める。
治癒をサポートする
あくまで施術者の刺激はきっかけであって、治癒はその人(鍼を受ける人)の内部の働きだ。
施術者の「自分が治す」「悪いところを治す」などといった想いは邪魔になる。
もう少し突き詰めて考えると、結局その人が治る(よくなる)時だから治るのかも知れないとも思う。
施術者の与える刺激が治るきっかけとなるとは、逆に言えばその人が治る時だからきっかけになるとも言える。
たとえ施術を受けていなくても、治ったのかも知れない。
これは結局確かめようがなく、本当のところは分からない。
だから「施術してもらってよくなりました」と言われても、「よかったですね」ぐらいしか言うことはできない。
「自分が治した」などと考えることはできない。
しかし、だからといって施術者の仕事が無意味とか、技術を高めること、学ぶことが不要だと考えているのではない。
学び続けることでより的確に仕事がなされ、より明確に治癒プロセスを味わうことができるようになる。
プロセス
鍼による治癒のプロセスは文化人類学者のファン・へネップやヴィクター・ターナーが示した通過儀礼のプロセス(分離期-過渡期-統合期)と似たようなプロセスを辿る。
生きていく過程で様々な刺激を受ける。
人はそれを心身で感じ、反応しているが、ある状況において、刺激に対してうまく対応できないと心と身体を強張らせる。
ある場所が強張ると、逆にある場所はたるむ。
強張りとたるみは陰と陽の関係。
虚実は「ある刺激に対応中」という目印で、全体的な虚実もあるし、部分的な虚実もある。
強いショックで虚実が生じることもあるし、少しずつ積み重なって虚実となっていくこともある。
意識できている場合もあるが、はじめから無意識の場合もある。
長く固定化された虚実は無意識の心身パターンとなりその傾向を強めていく。
そして相対的な程度の幅を超えて限界に達すると、変化が始まる。
・分離期(死-崩壊)
それまでのパターン(制限)から外れる。
虚実が生じたプロセスと逆のプロセスをたどっていく。
人によって様々な反応が起きる。
お腹や手足が温かくなる、脈や呼吸がゆっくりになる、身体のだるさ、眠さ、感覚の鈍磨、などの反応が出る。
・過渡期(軋轢と調整)
自分の中の抑え込まれていた(仮死状態だった)身体部分とそれに伴なう心の部分が主張し始める。
その結果、内部において周囲と軋轢が生じる。
身体のムズムズ感、うずき、筋肉がピクピク動く、脈や呼吸が速くなる、痛み、熱感、感情の噴出、などの反応が出る。
この内部の軋轢は徐々におさまり、次第に調整されていく。
調整が終わると、不要となったものが離れていく。
汗、鼻水、涙、目やに、くしゃみ、唾液、大便、小便、抱え込んでいた感情の客観化・相対化などの反応が出る。
軋轢と調整の激しさや期間は人によって異なる。
この状態で外から過干渉されると、こじれることになる。
・統合期(再生-心身の再構成)
不要なものが離れ、心身がスッキリして、目は輝きを増す。
身体のバランスや感じ方・考え方にも変化が起きている。
その後、身体外部である周囲との関係においても同じことが繰り返される。
自分と周囲との人間関係において、それまで気にならなかったことが気になったり、気になっていたことが気にならなくなったりする。
それは自分の内部が変化した結果であり、外部においてもその結果が反映され軋轢が生じ、調整されて、新たな関係性が生じる。
もし以前に心身を強張らせた刺激を同じように受けても心身を強張らせる程度は減る。
それはある刺激への対応を学んだと言える。
こういった小さな通過儀礼、死-再生を繰り返して、よりよい対応、仕方を学んでいく。
神(シン)
東洋医学の神(シン)は姿形のある宗教的な神(かみ)とは異なり、精神の働き、また広い意味では生命活動全体を指す。
東洋医学の古典には「治神(ちしん)」という言葉があり、鍼治療の秘訣は神(シン)を治めることにあるとされている。
皮膚上に鍼をしていくと、その人の信仰に影響することがある。
その人が信じているのが普遍的な「神(かみ)」であり、純粋で内的な信仰であれば、鍼施術を受けても揺るがないだろう。
しかし、信じているのが個人の欲望や恐れによって限定された神(かみ)であれば信仰が揺らぐことがある。
皮膚表面に鍼をすることで認識が更新されていく。
それまでの物の観方や考え方、価値観、信じているもの等がより無理がなくなる方向へ、現実に合っていくように作用する。
その結果、それまで自分が信じていた物事や自分自身に対して、それまでと同じような気持ちを持てなくなることは多い。
それは治癒のプロセスの一部だ。
そういった変動に伴なう諸々の軋轢はどういった人にも起こりうる。
しかし、神(かみ)を生活の糧としている人にそういう変化が起きると、周囲の人たちがその人の変化を恐れることになる。
そうなると鍼治療を続けることは難しい。
元々信仰自体がなく割り切った金儲けとして神(かみ)を語っている人は皮膚に鍼をしても関係ないだろう。
しかし、そういう人にはこちらが鍼をする気にならない。
枠
治癒には安静、そして安心感が必要だ。
しかし、自分の枠が破れていたり不安定だったりすると、何をどれだけ注いでも満ち足りることはない。
そして、他者の枠に力ずくで入り込もうとしたり、逆に入り込まれたりする。
その状態では自分の中にある自然に治ろうとする力を信じることができない。
待つこと、任せることができない。
力を抜いて、心身を流れに委ねることができない。
それは安静、安心感から程遠い状態であり、病気が治りにくい状態となる。
人は皮膚が枠となっている。
皮膚に鍼をすることで、鍼を受けた人は自分という枠を再認識していく。
その結果、枠の破れに気づけばそれを治し、大きさが現実と合っていないことに気づけばそれを修正する。
そして無理が少なくなり、すっきりしていく。
♪Yellow Coldplay
科学的
鍼の世界に入ってすぐに直面する問題が、
・同じ場所に鍼をしても、行う人(施術者)によって効果が異なる。
・同じ場所に同じ人が鍼をしても、受ける人(受療者)によって反応が異なる。
・同じ人(施術者)が同じ人(受療者)の同じ場所に同じように鍼をしても、その時々によって効果が異なる。
ということだ。
西洋医学(特に薬の開発)は膨大な労力とコストを使って実験を行い、統計や確率を用いて有効性の根拠としている。
そこに至るエネルギーは凄いものがある。
しかし、鍼の臨床をやる上ではそういったことはあまり意味がないと思う。
同じ疾患名であっても、体表のツボへの現れ方は人によって異なる。
そして、受療者は同じ時に同じ場所(ツボ)に複数の施術者の鍼を受けることはできない。
治癒は人生の一部だ。
人生は後戻りのできないプロセスであり、病気も治癒もその一部だ。
結局、その時その場しかない。
鍼の臨床をやる者としては、施術者によって鍼の効果が異なる中で、より効果が出る施術者となることに意味がある。
受療者によって鍼の効果が異なる中で、今ここにいる受療者に対してより効果のある施術を行うことに意味がある。
今ここにいる受療者に対して自分があるツボに反応を感じたのならそれは意味があることだ。
たとえその後100人の施術者が同じような症状がある100人の受療者に対してそのツボに鍼をして効かなかったとしても。
鍼の臨床をやっていく上では、結果を検証・考察して次につなげていく態度が大切だと考えている。
そういった検証と考察の積み重ねに基づき鍼施術をしていく上で大切なことが2点ある。
一つは、身体への直接的なダメージが少ないことだ。
ここで皮膚に接触させる鍼のみをしているのは、その方法が効果があると実感していると同時に、身体へのダメージがないということをとても大切なことだと考えているからだ。
身体へ意図的な侵襲刺激をすることのデメリットについては一般にとても軽く考えられているように思う。
もう一つは、西洋医学を否定しないことだ。
必要と感じたらこちらから病院の受診を薦めることもある。
特に高齢者や慢性的な疾患がある場合、定期的に検査を受けることは大切だと考えている。
必要に応じて西洋医学とも協調しながら、皮膚表面への刺激により自然治癒力を賦活させる。
そして結果を検証し次につなげていくことが鍼の仕事だと考えている。
本
鍼灸の本(古典)を読むと、「ああ、ここに書いてあったのか」と気づくことがある。
以前も読んだことがあるはずなのだが、その当時では理解ができなかったから気づかなかったのだ。
しかも気づいてみると、難しく書いてあるわけではなく、すごく分かり易く書いてくれている。
そういった”発見”はとても楽しい。
著者への共感が生じ、また新たなヒントを得たりする。
そしてそれは思い上がりを防いでくれるという点でも大切だと思う。
学び始めの頃、「自分はこんなにすごいことを発見した!こんなことに気づいてるのは自分だけだ」などと思うことがある。
しかし鍼灸や治療に関して”自分が最初に気づいた”ということはなく、表現は違えど探せばどこかに書いてある。
なければ探し方が甘いか、気づいたことが本質から外れているかのどちらかだ。
そして古典は表現が素晴らしい。
次の落とし穴は「自分は他者よりも本(古典)を沢山読んでいるから偉い、賢い」と思うことだろう。
それは積み上げた知識と技術を台無しにしてしまう。
“犀の角のようにただ独り歩め”
「ブッダのことば(スッタニパータ)」より 中村元訳
怒
東洋医学では怒は肝から生じ、その情動を「気逆気上」などと表現している。
最初から気逆気上が起きなければ問題は生じない。
問題が生じるのは気逆気上が起きているにも関わらず、実際に怒れない時だ。
肝が気逆気上を起こしたものの、憂をはじめ恐、思などが怒を対象へ発生させるのを止めてしまい怒ることができなくなる。
(憂と悲は肺、恐と驚は腎、思は脾、喜は心と関連している)
そのため気逆気上が処理されないまま、抑え込んだままの状態が長期に渡ると様々な問題が出てくるようになる。
元になった怒りを表面上忘れていても、気逆気上は継続していく。
気逆気上が継続している場合、表面的には穏和でも常に怒りを押し殺している。
そして自分が本当に怒りたい対象に怒ることができず、自分より弱い(と認識した)対象にだけ怒る。
その場合、一方的に「怒らないこと」をアドバイスしてもあまり意味はない。
気逆気上が継続している人は本当に怒りたい(怒るべき)対象に「怒れない」状態に陥っている。
怒らないアドバイスはそのズレを拡大させることになる。
また、「怒」を含めた七情は人が生きる上で欠かせないものであり、その否定や抑圧は心の機能とエネルギーの低下を招くことになる。
気逆気上が継続している場合、自分の中の怒を認識することで解除される。
鍼施術は本人に気逆気上の状態に気づくことを促し、自身が抱え込んでいる怒を認識するきっかけとなる。
認識することで気逆気上の習慣的状態は解除され、気が下がっていく。
そして同じような状況になった場合、少しずつ気逆気上と怒が合うように、適切な範囲に収まるようになっていく。
また、度を越えても以前よりはやく平常に戻ることができるようになる。
こういったプロセスの繰り返しによって現実的に自分が出すことができる、適度なタイミング・程度の怒りを見出していく。
それは心の境界線となる。
怒を抑え込んでいるだけでは緊張状態が継続するだけで学ぶことはできない。
かと言って弱い所にぶつけているだけでも改善しない。
怒っている自分が観察されることで変化が生じる。
他の七情(悲・憂・思・恐・驚・喜)についても同じことが言える。
つかれ
「何でこうなっているのか?」、「どういう状態ですか?」などと聞かれた時、「とてもつかれてますね」という言葉を時々使う。
「はー、そうですか。そんなにつかれてないですけどね」 などと反発されることもある。
つかれている人ほど、自身がつかれていると認めたくないことが多い。
不要な力が入っていると、ある動きがしにくかったり、動きに痛みが伴なったりする。
動かなくても違和感や痛みが出たりすることもある。
そういった状態は”今ここでこうしているには”不要な力が入っているということになる。
その状態は他の(過去の)ある場面・状況では有用だったのだろう。
でも、その身体と心の状態が続いてしまっている状態だ。
それは全身の筋肉の緊張だけでなく、身体内部の様々なはたらきとも関連して全体でそうなっている。
だから「原因は○○筋です」とか「原因は骨盤の歪みです」などとは断言することはできない。
曖昧だが、それらを要約するために「つかれている」という言葉を使っている。
つかれは「疲れ」であって、「憑かれ」。
皮にやまいだれで「疲れ」。
皮膚が偏ったままニュートラルな状態に戻っておらず、そのため筋肉の緊張もニュートラルに戻れない。
そして過去の状態を引きずったままになっているから、「憑かれ」。
ある状況への反応状態に取り憑かれたままになっている。
”今ここでこうしているには”不要な力が入っているということに気づいていない状態。
それは気づくことで解消されていく。
ここでは皮膚へ鍼をすることで、そういった状態を解いている。
それは気づきのサポートとなる。
電気治療や強すぎるマッサージ、シップなどは感覚を鈍くして、気づきは遠のく。
それは鍼でも同じだ。
ツボに不用意な刺激をすると、虚を衝くことになる。
虚を「衝かれ」ては、解けない。
それは新たな「つかれ」を生み出す。
打つ
鍼師の多くは「鍼を刺す」と言う。
これは皮膚を破り身体内に鍼を入れていくことを示している。
「鍼を打つ」とも言う。
管鍼を使った場合、鍼を指頭でトントンと打つことで皮膚を破る鍼師が多いからだろう。
太い鍼をお腹に当てて木槌等でコンコンと叩く打鍼術の影響もあるかも知れない。
「打つ」という場合は、打つ対象が明確にある。
たとえばそれがボールだとすると、「ボールを打つ」と言う。
「バットで打つ」「ラケットで打つ」とは言うけれど、 「バットを打つ」「ラケットを打つ」とは言わない。
鍼の場合、「鍼を打つ」とも言っても「鍼で打つ」とは言わない。
「鍼で打つ」という場合、その対象を明確にする必要がある。
鍼で何を打つか?
ここでは皮膚を打つ。
皮膚を破らずに打つ。
皮膚は心を生み出している大きな要素だ。
皮膚を鍼で打つことで、結局心を打つのだ。
心を打つことで、全体が治る方向へ動き出すきっかけとなる。
鍼で皮膚を通じて心を打つには打ち方がある。
ただ鍼で皮膚を打ってもその先の心へは通じない。
皮膚にはロックがかかっているからだ。
東洋医学でいうと「邪が心に直接当たらないように心包が守っている」。
やみくもに打っても決して心へは通じない。
ロックを解く鍵は「手」だ。
ただ触れるだけでなく、触れ方が問題となる。
鍼をする前に手で受療者の皮膚に触れることを按し手という。
按し手が触れる瞬間に、受療者の皮膚がその手(の持ち主)に対して心への道を開けるか閉じるかを判断する。
そして通じるか通じないか決まる。
施術者はそういった手を練り上げていくことが必要になる。
チェック体制
皮膚は身体を包み外界と内界を分けている。
働きとしては
- 外界のセンサー
- 外界の刺激に対する防衛・対応
- 内界の外在表現(あらわれ)
- 自分という枠の形成
皮膚は原初生命の感覚器だ。 特に近年は表皮の研究が進んできた。
傳田光洋氏はその著書『皮膚は考える』の中で、 「皮膚表皮には原初生命の時に感覚器として作用していた機能が残っており、神経組織にあるのと同じ情報伝達物質受容体があることが分かってきた」 「皮膚は単なる袋ではない。皮膚は神経系や循環系と離れた独自の機構を持っている。皮膚自体が高度な情報処理システムを供えた高度な臓器である」 などと述べている。
そして皮膚には共生者である皮膚常在菌がいる。
皮膚1cm2当たりの菌数は通常数万から数十万とされる。
皮膚常在菌は皮膚から出る皮脂から栄養を得て生存し、皮膚の中のランゲルハンス細胞等による免疫機能と共に、病原菌(通過菌)等から身体を守ってくれている。
住処である皮膚の状態に最も敏感な共生者と言える。
おそらく皮膚表皮と皮膚常在菌は何らかの連携をしていて外部からの刺激の対応と、内部である心身の状態のモニタリングをしていると考えている。
皮膚表皮は生命存続の鍵となるセンサー機能を担っている。
「境界」に位置し、気候変動への対応や水をはじめ様々な物質に対するバリア機能など、外部からの様々な「物理的な刺激」に反応し対応している。
皮膚常在菌は通過菌と呼ばれる病原菌が皮膚に住み着くのを防御しており、おそらく外部からの「精神的な刺激」にも反応している存在だ。
外部(他者)から精神的な刺激を受けたとき、独立した生物である皮膚常在菌は敏感に反応しそれが何らかの形で、「住処」である人間に伝わると考えている。
皮膚表皮と皮膚常在菌は連携して、外部からの物理的な刺激と精神的な刺激に反応して、それを内部に伝えることで心身は内部環境を保ちながら外部からの刺激へ対応することができる。
内側である心身の状態は外側の皮膚上にあらわれる。
人間社会においては組織をチェックをするのに内部の人間では公正さを保てないので外部の人間を入れてチェックをさせている(監査法人や第三者委員会等)。
人の身体において皮膚表皮は内部の監視役と言える存在だ。
皮膚に心身の状態を反映させることで、自分や他者の目も異変に気づきやすくなる。
服を着ていなければ尚更気づくだろう。
そこへ自分や他者が皮膚に刺激を与えることで身体内部も変化する。
鍼灸はそのようなことから発展してきたと考えている(もう一系統は膿等の切開)。
また、手首、足首には経絡を整える重要なツボ(要穴)が並んでいる。
そして足つぼマッサージは広く行われている。
普通に歩くだけで(裸足なら特に)心身が調整される構造になっている。
かつて人間も裸足で、そして手足四本で歩いていたことを考えると、足裏や手のひら、手首や足首に全身を調節するスイッチを備えておくことが理にかなっている。
人には身体内部のチェック機能があり、歩くことで自然に足裏や足首などが刺激を受けて内部が整う機能があり、他者の目と刺激というチェック機構があることになる。
何重もの、極めて周到なチェック体制が出来上っている。
それらが正常に機能していたら人間が病気であり続けることが難しいぐらいである。
多くの人は今考えているよりももっと自分に備わった仕組みを信頼することができる。
皮膚は身体と心を外部から統括している。
心身のバランスを崩している人に対して皮膚を通じて元々人間が持っている調整システムにはたらきかける方法は、自然で理にかなったやり方だと思う。
♪Wonderwall Oasis
表裏
何か刺激を受けるとまず皮膚がキャッチし、必要に応じて心身に対応を促す。
そして心身が対応する。
つかれていたり、こだわりや感情の抑鬱などが強いと皮膚の働きが悪くなる。
そして心身が刺激に対応ができず異変が生じると、それは「しるし」となってあらわれる。
その場合、心身の異変は認識されることなく継続していく。
鍼はそういう時の補助となる存在だ。
働きが鈍っている皮膚上のツボに鍼を軽く当てることで、皮膚が本来持っている機能によって波紋のように全身へ作用していく。
何かあったら医者に行けばいいなど他者に依存する考え方は、自分に本来備わったチェックの機能を鈍らせてしまう。
強い刺激(強い鍼刺激や強いマッサージ、電気刺激など)もまたチェック機能を鈍らせることになる。
皮膚表皮の働きは無意識のうちに行われるので、それと同じように意識に明確に上らないような最小限の刺激(=心地よい程度)を行うことで表皮の機能をサポートをすることが必要となる。
また、口から肛門までの消化管の粘膜も内側の皮膚と言える。
そして、肚(ハラ)、丹田、腎間の陽気と呼ばれる臍周辺の部位は東洋(医学)では生命力の根本とされる。
臨床上、臍の周囲の皮膚に鍼をすることで気分や症状が良くなることは多い。
「肚(ハラ)ができている」、「肚(ハラ)がすわっている」というのは、形(姿勢)や態度もそうだが、消化管の活動とそれを支え共生している腸内細菌による生態系(腸内細菌叢)の安定した状態を指すのだと思う。
腸内細菌は100種類以上、100兆個以上とも言われ、まさに内宇宙と呼ぶにふさわしい世界を構築している。
腸内細菌叢の状態がよい時、人は消化吸収や排便が好調で、その結果食欲もあり、睡眠も深い。
そして気分も穏やかで安定している。
東洋医学において、小腸が心と同じく最も重要な君火(君主の火)と位置づけられている(表裏の関係)のは、ここに理由があると考えられる。
心と小腸が君火であり、心包と三焦は相火(宰相の火)である。
相火は君火の代行者としてはたらくとされる。
皮膚常在菌は相火の一部を担い、腸内細菌叢は君火の一部を担っていると思う。
そして、皮膚と皮膚常在菌の「表」と、消化管粘膜と腸内細菌の「裏」は何らかの連携をしながら内外の環境を管理していると考えている。
表にあり境界である皮膚と裏にあり中心である肚。
皮膚と消化管粘膜。 皮膚常在菌と腸内細菌。
陰と陽の世界といえる。
役割
「自分」には様々な役割がある。
家族の一員として、会社の一員として、社会の一員として、など。
それぞれの枠に所属して、その中で特定の役割を果たしている。
一日に少しの時間でも、週に一度でも、月に一度でも所属も役割の何もない時間があること。
もしくは、年に一度でも心から楽しめる何かをすること。
それらはとても大切なことだと思う。
そういった時がないと、所属や役割としての自分が固定化する。
固定化は自然な身体反応を制限して治癒力が働きにくくなる。
厄(やく)年は年齢的な身体の変化が大きくなる年というだけでなく、様々な役(やく)が積み重なって身動きが取れなくなりやすい時期なのだろう。
鍼施術は役割というコートの脱ぎ方を忘れてしまった人、もはやそれを着ていることすら忘れてしまっている人に対してコートを脱ぐきっかけとなる。
それは「北風と太陽」の話と同じで、無理には剥がせない。
いま
過去の問題を引きずったり、過去の栄華に浸っていたり、未来のことを憂いたり、未来に過度に期待している場合、生命力が分散・消耗して治癒力が働きにくくなる。
鍼施術は過去や未来の問題に取り組むわけではない。
「過去にこう感じた」というのは、過去にこう感じたと今感じている」に過ぎない。
「未来を不安に感じる」というのも今感じている。
どちらにしても今しかない。
身体で今起きている問題がよりよい方向に行くことで、過去の問題や未来の憂い(の捉え方)も変化していく。
体表には境界としての役割がある。
リアルタイムな情報がそこから入ってくる。
今を生きていない場合、皮膚の感覚が鈍い部分や過敏な部分がある。
それは不自然な、緊張した状態であり、呼吸や脈などにもあらわれる。
体表のツボに鍼をすることで緊張した状態が解けると、皮膚や呼吸や脈拍のリズム・タイミングなどが変化する。
自然と「今」に焦点が戻ってきて、治癒力が働きやすくなる。
たとえ、変化したことが時とともに元に戻っても、心地よい感覚を心身はどこかで覚えている。
継続していくことで、心地よい点が増え、少しずつ線になっていく。
そして治癒力がはたらきやすい状態を学んでいくことになる。
ここ
ある場面において、この場に居たくないと感じると緊張が生じる。
しかし居たくないと感じても、居なければならないこともある。
その場合、身体は動かなくても意識の焦点を「ここ」からそらすことで逃避する。
それは生きていくための方法のひとつだ。
しかし、それは緊張状態であり長く続くと意識が分散し、消耗する。
そして治癒力が働きにくい状態となる。
体表上(皮膚)では、働きや感覚が鈍いところと過敏なところの偏りが生じる。
そしてそれを認識することができなくなる。
そういった皮膚(感覚)の偏りと「ここ以外」の意識は何かしら関連している。
そのため、そういった部分に鍼をすることで皮膚(境界)の働きが活性化し、「ここ」の意識が賦活する。
自然に「ここにいる」と感じられるとき、心身に無理がなく楽な状態となる。
もし長い間「ここ」から離れていたのなら、たとえ「ここ」に戻っても、またすぐ「ここ」から離れてしまう。
しかし、継続して施術を受けていくことで居場所は「ここ」なのだと感じるようになる。
そして少しずつ「ここ」に落ち着いていく。
「ここ」が居心地がよい場所になった時、外の世界においても自分にとって以前より居心地がよくなっている。